愉快な散歩或いは読書

アクセスカウンタ

help リーダーに追加 RSS 贈物・感想・えとせとら

<<   作成日時 : 2007/12/23 12:41   >>

トラックバック 0 / コメント 0

今年さいごのブログは竹林の小屋へ訪れて下さつた方々への感謝の気持ち。僕のノートにあつた勝手な引用を其の儘に書き写した。何時のノートかつて?勿論、明後日のノートですね。(十人にも満たないお客様の名前は略。)
・・・CU



















《君は縦に生きるつもりか。》(高橋新吉)

《うちの小鳥が
 あくびをした。》(天野忠)

此れだけではさつぱり判らないだらうなあ。しかし、高橋の詩をあつさりと理解してみても面白くないだらう。縦とか横とかを考へることはやめるべきである。頭のなかで僕は、3・3・3・4と数へてみる。最後の、4は詩でもあるし、死でもある。詩人は永く生きた。同じやうに、小鳥が欠伸をするものなのかは判らないが、天野も永い人生を生きたのだつた。さうして、此の小鳥は二日後に死んだ。

《あんたの酒は有名だつたが、
 そんなにたいした酒呑みだつたか 疑はしい、
 詩とエッセーで酔はせてくれて 十分だつた。》(大岡信)

《生の背後は無 死の背後も無
 同じ一つの無が生と死を抱いている》(宗左近)

大岡の詩は、田村隆一・追悼のもの。宗の一連の「縄文」の詩を幾冊か集めて読んでゐたことがある。いま、此れを書き写しながら浮かんできたのはゴリラの話だつた。ゴリラは菜食である。菜食の動物は食べることに時間をかける。朝起きてから寝るまで食べ続ける。食事の時間以外には余裕もない。遊んだり交尾したりする時間はすべて其の合間である。人間は普通肉食である。では、縄文人は?

《旅はなにより私的な喜びである。》(ヴィタ・サクヴィル-ウェスト)

《女性の感受性は、何世紀もの間、共同の居間からのさまざまな影響のもとに育まれてきました。》(ヴァージニア・ウルフ)

詩の話から散文の話へと変はる。すると通俗的な好奇心のやうなものが姿を現してくる。此れは僕の反省でもあるが、また、僕の英国の小説の好みも其のためかもしれない。バイ・セクシュアルな二人の女流作家を斯様に読むことは正しくはないかもしれない。ウルフの風変はりな小説を読んでゐたとき、愛人でもあつた別の女流作家のことを考へてもゐたのだつたし、しかし、麦酒を飲みながら、彼女の名前から「苦い」と云ふ意味のアルコールをも連想してゐたのは確かだつたのである。・・・英国を象徴する二つの単語は「居酒屋」と「紋章」ではなかつたか。

《「とにかくヒッピーとか、ふうてんとか、人間の屑だ。そんな中に居ては、一人前の口をきく資格はない」》(城山三郎)

《彼は貨殖の一端として高利の貸元を営みけるなり。》(尾崎紅葉)

城山の短篇集の奥付をみると、1974年である。経済小説とは斯様なものなのか。僕ははじめて城山三郎を読んだのだつたし、其れ以外の作家のものを知らないのではあるが、紅葉の時代のブームと戦後の経済の、此の國のブームとが密接であることに驚く。さうして、「資本論」もプルーストも愉しみとしての読書だつたと書いた中村真一郎の言葉を思ひ出したのだつた。僕は、紅葉を幾度も愉しみとして頁を開いた。けれど、経済の繁栄のなかにゐた男たちがいま愉しみとして開く其の頁は何だらうかと考へる。

《やまとうたは、人の心を種として、万づの言の葉とぞなれりける。》(紀貫之)

《茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る》(額田王)

歴史的時間が逆である。しかし、見方は時代を下るかもしれない。「古今集」の有名な序の一つは紀貫之の作とされる。紀淑望の序は漢文。背後にあるのは中国であらうが、僕の愚かな空想は万葉へと跳ぶ。万づの歌の集の、無名もあれば代作もある。其の代表的な歌人が額田王だらうか。寺田透の書いたものにヲンナウタの考察がある。

《一般的に心理学者が錯覚と言っているものはどれも錯覚ではない。》(大森荘蔵)

《ミルクは明日の朝も玄関にあるだろう。》(ジョージ・オウエル)

坂本龍一が哲学者に尋ねたときの答である。左右のスピーカから流れ出る音が中央から聴こへるのは錯覚だらうか、と。オウエルの其れは「カタロニア讃歌」の最後にある。左右の耳に聞こへてゐたファシズムは錯覚だつたのか。

《バッハのレコードを選んでプレイヤーにかけると、マルティン・ベックはベッドに横になった。》(マイ・シューヴァル ペール・ヴァールー)

《隅に置かれたポータブル・テレビではモース警部の再放送をやっている。》(ピーター・ラヴゼイ)

懐かしいマルティン・ベックのシリーズを思ひ出さうとしてゐる。モース警部も聴く音楽はクラシックだつた。70年代の瑞典の、福祉国家の時代の、彼らの活躍は際立つてゐた。繁栄と孤独。チームと個。福祉国家と云ふ言葉が70年代にあつた過去のもののやうな気がしてくるのはなぜだらうか。モース警部は、確か、病院のベッドで亡くなつた筈である。・・・高橋哲雄「ミステリーの社会学」は愉しい本です。

《私たちは目隠しをしたまま現在を横切る。》(ミラン・クンデラ)

《クレイグ・ライスは浮かれ騒ぎの物語を書いたが、実人生では二日酔いの日々を生きた。彼女はミステリー界のドロシー・パーカーだった。》(ウィリアム・ルールマン)

コンサートのなかで客席に向かつて、同時代に生まれてありがたうと云つたのは中島みゆきだつた。僕たちは束の間の酩酊を愉しんだ。現在と云ふ時間を愉しんでゐたのはクレイグ・ライスでもドロシー・パーカーでもなかつたやうな気がする。二人の天才は生きてゐる現在から逃れるべくタイプライターに向かつたのではないか。彼らは御見通しだつた。しかし、大抵は御先真暗のいまを生きてゐる。

《「まっくらでござんすな、おばけが出さう。」》(宮澤賢治)

《幽霊とは要するに、まだ論理化されない現実の部分が、すでに論理化された部分とのあいだでひきおこす、摩擦音なのだ。》(安部公房)

幽霊は、彼の芝居では商品にされる。幽霊とは死者の魂である。化物・妖怪も商売になつた。ミッキー・マウスもサンタ・クロースも商売である。宝籤が夢だと云ふのは間違つてゐるだらう。幽霊も宝籤も商品である。マルクスの大きな本もやはり商品。すべては明るい店頭で売られてゐる。

《良質な風俗小説は、野暮な思想小説などより、よっぽど本を読む醍醐味を味わわせてくれる、消費社会ならではのエンタテイメントといってもいいでしょう。》(斎藤美奈子)

《文章が、しばしば不完全に終止するのは、編み続けることの終りなさの証であろうか。》(本田和子)

丸谷才一の「女ざかり」が詰らなかつたのは、後になつて、斎藤の文章を読んでから自ら納得したのだつた。此処で彼女は衣装の描写から風俗小説を論じはじめる。確かに、其の意味では三島由紀夫ははるかに優れた小説家だつた。「裏声で歌へ君が代」が面白かつたのに「女ざかり」が詰らなかつたのはなぜなのか。本田は吉屋信子を論じてゐる。

《新元会では堅苦しいものですから、いつとはなしに「おらんだ正月」と呼びかわすようになって、その会は四十何年間も続けられました。》(森銑三)

《江戸の町には、正月になると太神楽や三河万歳、大黒舞、鳥追いなど、さまざまな芸人がやってきた。》(西山松之助)

蘭学者と江戸の庶民の正月を想像してみるのは愉快でもある。なぜか此の時期になると冬から夏へと思ひは廻る。或いは春から夏。国府津から浅草へ。(勿論、「耽溺」と云ふ小説が脳裡にあるからであるが。)いま其の確かな理由を書くことができない。吉屋信子と岩野泡鳴は来年の宿題。

《おめでとう! この黄金切符をみごとに手に入れたきみに、》(ロアルド・ダール)

《倦みたるうたかたの現身よ、》(ジェイムズ・ジョイス)

ドチラも訳者は柳瀬尚紀である。ダールを斯様に演じるなんて、否、役者だから、否否、訳者だから。柳瀬は新しい翻訳者の立場を確立したのだつた。僕にはさう見へる。

《オリオンの盾新しき年に入る》(橋本多佳子)

《巨大な重量の反響が烈風の咽喉を塞ぐ。》(北川冬彦)

再び詩に戻る。そろそろ終りである。時間もノートに書いたメモもなくなつた。用意したものは残り少ない。まもなく新しき年。橋本に並べて啄木をも考へたけれど、あの有名な穏やか正月は返つて僕には不安である。思ひ切つて雪のなかの軍隊を空想したのだつた。・・・多くの戦争協力の、「国民詩」を僕は杉本苑子の本で知つた。























断章 @

野鼠の蓄へた栗などを屯田兵が其の巣を見つけ出して焼いて食べる話を柴田宵曲が書いてゐた。バーンズの鼠の詩については既にどこかへ書いた。《私はほんとに悲む、人間の支配が / 自然の社会的和合を破つて仕舞つた事を》都市に生活してゐると、はるか江戸を空想するよりも困難を感じる。鼠にとつては迷惑な話だらう。昔、駅ビルのなかの立ち食ひ蕎麦屋で食べてゐたとき、カウンターの上に大きな溝鼠が姿を現したことがあつた。烈風が僕の咽喉を塞いだのだつた。《未来は見ることが出来ないけれど、/ 察して恐れる!》

断章 A

落語もさうであるが、コンサートでは歌ひ手が歌ひはじめないと曲目が判らない。もし、其の曲を知らなければ最後まで判らないのが普通である。期待してゐた曲目があるかは最後まで判らない。なぜだらうか。知らないと云ふことが愉しいとも云へるのだけれど、今年も僕は無知を通してきたやうである。「天と地とのシンフォニイ」を読んでゐると、犬養道子は此方の知らないことや間違ひを一々正してくれる。僕の頭のなかは困つたことにもなる。貧しき者が優先されるキリスト教において富者が其の家の階上において最後の晩餐をひらく。なぜだらうか。

断章 B

昨日がさうであつたからと云つて今日がさうであるとは限らない。明日のことは誰にも判らない。未来とか世界が存在してゐて、其れを覗くものは不安を発見する。扉を押し開いてみると其処にあつたのは自己のもつ不安であつて世界がさうなのではなかつた。単に世界が横たはつてゐるだけなのになぜさうかんじるのだらうか。大桟橋の、今でも此処から海外へ渡航するのだらうか。其の海の水は思つたよりも綺麗だつた。少し油が浮いてゐて瓦礫もぷかぷか。来年は其の世界の瓦礫のぷかぷかを鳥渡勉強してみるか。汚れた海を見て少しだけ綺麗だと思ふのは老人の抵抗でもある。抵抗・掙扎・超剋は竹内好の思想である。彼の内に発する其の思想は、しかし、其れは思想への嫌悪だつたかもしれない。見てきたやうな世界を語られてあつたやうな世界を知らされて彼の嫌悪感は募る。竹内が魯迅を読むのは、僕が竹内や魯迅を読むのは、・・・さう、あなたと同じかもしれない。《夢は失せにし / 玉の如く、/ 覚めて摑むと / すれど、あはれ。》(岩野泡鳴)

断章 C
本当に此れで終りです。ありがたう。

《もし、われわれが死ではなく・・・誕生を考えるならば・・・生命は短くない。》(カレル・チャペック)

《われはもはや、生くるとも死すともあらず、》(イエイツ)

不死を廻つての喜劇の顛末。若い人が老人を救つてくれたお話でした。イエイツの詩は後期になると様変はりする。現在の僕が愉しむのは、不図気がつくと、老人が出てくるものばかりだつた。彼は晩年になつてまで若き日の恋人のために作品を書いてゐたやうにも見へる。しかし、本当は恋人のためではなかつたやうにも思はれる。・・・

月別リンク

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文