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遊びのなかで、誰にも答られない謎を出すことが最高の智恵であると云ふやうなことをホイジンガは書いてゐた。しかし、答のない問もまた少なくないのである。其の問に答があるのか、或いはないのか。・・・数十年の昔に、仙台に大きな地震があつて、其の人は三分が三十分にも感じられたと云ふ話をしてゐた。僕は、一分を十分にも感じたのはエレベーターのなかで揺れを感じたときだつた。僕は、珈琲を飲みながら不順な五月の空を見てゐた。彼は、笑ひながら、其れもいい経験でしたと云ひながら去つて行つた。まるで答のない問に簡単に答を出してしまつたやうにも思はれたのだつた。中國では大きな地震があつたばかりである。僕は、自分の臆病を悟る。地震と雷と細君は苦手である。竹林の小屋が少しでも揺れると、僕は不安である。自分の体調が思はしくなくて、自分が揺れてゐるとしても。散歩の途中の雷雨も危険である。・・・鳥渡、アーレントを連想させるけれど、フロイトも国家のなかでのみ人間は幸福を感じると書いてはゐなかつたか。僕は、國家を信じることができないから、不安なのだらうか。愚昧な論理ではある。 若い人が村上春樹を読んでゐて、僕に質問する。レトリックとはなにか。同じ人が「神聖喜劇」を読み始めた。彼は、虚無主義が判らないと云ふ。僕は、直ぐに、Rose is a rose is a rose is a rose. の詩を思ひ浮かべた。また、建礼門院殿が、國體とはなにかと云ふ。彼女はいま、マックス・ウェーバーの解説書を読んでゐる。なぜだか判らなかつた。國體が判らないのではなく、なぜマックス・ウェーバーなのか。行き着くのは丸山真男だから、と云ふ。僕は、現代詩の始まりを入沢康夫に置く試論をメールで送信する。此れは僕自身が判つてゐない問題である。珈琲を飲みながら話した紳士は、明日、明後日は晴れですと云ふ。・・・しかし、朝になつて空を見上げると曇天である。なぜだらうか。 〔 以上は、本論とあまり関係がない。〕 1、3、5、7と云ふやうな数字を定義することはできない。携帯電話やデジタル時計で時刻を知るとき、1:11、3:33、5:55 などのやうな数字をよく見る。竹林の小屋の台所で、砂糖を7c計量する。しかし、安物のデジタル秤は 6.66 cを表示して止まつてゐる。其れは 7 cだらうか。しかし、7.77 cになることは少ないのはなぜだらうか。数字を神秘や魔術として古代から人間は見てきた。奇術で動物が数字を読み取るのは、人間がさう期待するのは動物の方に重きがあるのではなく、数字の魔力に魅せられてゐるからである。猫や馬が莫迦なのではないだらう。彼らに数字と云ふ観念はあるのだらうか。イエイツは彼の神秘主義で魔法や其の符号の虜になる。 《Ceremony's a name for the rich horn, And custom for the spreading laurel tree.》 時刻は、23:59 である。あなたは、次になにを考へるだらうか。其れは、つまり、Rose is a rose is a rose is a rose. の薔薇を、どの薔薇から訳すのかに似てゐる。あなたは、一番目の薔薇からなのか、二番目の薔薇からなのか、・・・其れとも最後の薔薇からなのか。翻訳は出来ないと諦めるのか。或いは、翻訳してはならないと戒めるのだらうか。0:00 と僕の棚の時計は表示してゐる。23 から 24 へ。59 から 60 へ。ドチラにしても 0:00 にはならない。時計は、00:00 にもならない。 《I will arise and go now, for always night and day I hear lake water lapping with low sounds by the shore;》 2:04 である。棚の時計は丁度五分遅れてゐる。さて、正確な時刻は? と考へてゐると現在の時間は流れ続けることにもなる。アレナスの「自伝」は、其の現在を止めやうとした処から始まる。五分遅れた時計が 2:04 を表示したとき、(が)、「夜になるまえに」を読み終へたときであつた。終日、僕はいつものやうに横になつて読み続けた。疲れるとイエイツの朗読を聴く。 《What is it but nightfall? No, no, not night but death; Was it needless death after all?》 3:34 である。「水中庭園」のなかで、富岡多恵子は、ひとは生まれない方がいいと思つてゐると書いてゐる。なぜ詩を書かないのかと云ふ問に、アドルノの言葉を引用する。其れ以前と其れ以後は・・・と考へながら、僕の思考は止まる。 《What shall I do with this absurdity - O heart, O troubled heart - this caricature, Decrepit age that has been tied to me As to a dog's tail?》 5:45 である。素数は無限に存在する。其の最大の素数は存在するだらうか。無限のなかで最大はあるのだらうか。時間のなかに素数はいくつあるのだらうか。英語では prime である。此れを逆に綴つてみる。・・・台所にあつた油の社名は英語で書かれてゐる。左から読んでも あぶら、右から読んでも あぶら、である。其れはなにか。其れは如何に発音されるのだらうか。emirp は素数を逆にしても素数である数字のことである。(13 17 31 37)生ははじまり死でをはる。(幼い老人 老いた赤ん坊) 《Death and life were not Til man made up the whole,》 6:00 である。しかし、時計は五分遅れてゐる。素数は、Auschwitz でもある。と、莫迦なことを思ふ。・・・1×1、11×11、111×111、1111×1111 と云ふ数字は、あぶららぶあ と云ふ言葉の組合せに似てゐるだらう。僕は、自分の台所をビザンチウムと置き換へてみるべきだらうか。 《But such a form as Grecian goldsmiths make Of hammered gold and gold enamelling To keep a drowsy Emperor awake;》 某月某日 閉店の時間に近いスーパーへ出掛ける。高い天井。空間が広さを感じるけれど、巨大な建物のなかに物が溢れてゐるやうには見へない。郊外にあるやうな、其れに匹敵するやうな駐車場が付属する。殺風景な高層の住宅が取り囲む。道を隔てて新しく出来たコンビニがある。其の上は高齢者向けの住宅。彼らはドチラへ出かけるのだらうか。道一本が境界をつくるのだらうか。僕たちは、重力のやうに消費の欲望に駆られる。消費を美徳と呼んだ愚かな時代もあつた。重力に抗ひ真空の小屋に帰る。22時48分。竹林の小屋にはなにもない。円も弗も来世には役立たないだらう。 某月某日 I'M NOT THERE のプログラムを見ながら、ディランを聴く。 某月某日 MARIO GIACOMELLI のテレビを見る。此の写真家は、建礼門院殿から教へられた。気づいた時には写真展は終つてゐた。怠惰な自分を反省する。 某月某日 柴田宵曲が、子どもの頃は蒲公英が簡単に見つからなかつたことを書いてゐる。しかし、彼は明治生まれの人の筈なのに、東京の下町ではさうだつたのかしらと、僕は長い間不思議に思つてゐた。確かに蒲公英は群生しないだらう。しかし、僕の子どもの頃だつて珍しいものではなかつた。The Times They Are A Changin' だらうか。風に吹かれて、彼方此方へ飛んで往きさうであるのに。・・・いま、季節外れなことを思つたのは、雨が降つて寒い日があつて、僕は体調を崩してゐるからで、横になつて考へることは詰まらぬことばかりだからである。 某月某日 時代が変はると云ふより、いつも変化するのは僕たちの方なのだらう。時代が変はるなんてことは有り得ないやうな気がする。Highway 61 Revisited も懐かしいアルバムだけれど、変化したのは・・・さて、ドチラだらうか。60年代を考へる必要はあるだらうなあ。 某月某日 僕たちに Auschwitze を描くことは出来ない。其れは考へることが出来ないのとは異なるだらうが、考へることが出来ないから描くことも出来ないやうな気がする。おそらく、僕がいつまでも独逸語が出来ないやうに、アドルノやベンヤミンを本当には理解できない気もする。 某月某日 「死霊」は観念小説だらうか。「神聖喜劇」は虚無との戦争だらうか。・・・僕は、Georg Heym のことを思ひ出したのだが、彼の詩は大抵、夜や夕暮の時間を描いてゐて、「夜はやさし」を連想させるけれど、やさしいのは死なのだらう。上手く翻訳できないから、若い人に薦めることもできない。 某月某日 戦争は文明や文化の発展や発達を促すだらうか。勿論、僕はさうした考へを否定する。論理的ではないからで、其の誤謬を幾つかの bug を含んでゐるに過ぎないと云ふ考へも賛成できない。・・・ナチスの時代に、亜米利加ではマンハッタン計画が生まれたけれど、当時、コンピュータは存在しなかつた。 某月某日 詰まらないことを考へてしまつたのは退屈だつたからであり、鳥渡、起きだしてネットで Emily Dickinson Lexicon を面白く読んでもゐたからかもしれない。 某月某日 寒いので安物のチーズとウィスキーを入れた珈琲を用意する。僕と同年の女友だちはウィスキーと刺身をつまみにすることを好んだ。彼女は東京オリンピックの時に聖火を運んだ一人だつた。当時は一喜一憂したけれど、其れは愚かなことだつたと今では思ふ。教室では誰かと比較してより多くの点数を獲得した者が成績優秀となる。そんな阿呆らしいことがあるだらうか。・・・マンハッタン計画では優秀な若い人が多く集められた。しかし、未来の Einstein は入つてゐなかつただらうなあ。 某月某日 物理も数学もアノ計画に叛逆した者が出たと云ふことは思考に係ると云ふことだらう。或いは哲学の問題であらう。コンピュータは哲学するだらうか。 某月某日 人間が哲学するとは限らない。未来に於いて、コンピュータは幾つの完全数を見つけることができるだらうか。6(=1+2+3 )や 28(=1+2+4+7+14 )から人間はなにを見つけるのだらうか。或る本に拠れば、130,099 が発見された最後の完全数だと云ふことらしいけれど。 某月某日 上記の数の約数は如何に見つけるべきものなのか。130,099 が如何にして発見されたのか。 某月某日 3-4-5 や 20-21-29 や 48-55-73 と云ふ数はピュタゴラスの定理に関連する。原子爆弾が数学と関連したやうに、希臘の数学者は何を思つてゐたのだらうか。数学と霊魂の関連に一つの美を想像してゐたのは確かではあるだらうが、しかし、彼や彼の弟子たちが見つけだした 3-4-5 や 20-21-29 や 48-55-73 の数から、おそらく、無限の無意識を考へてゐたのかもしれない。 某月某日 数字も形である。文字も形。数字と文字は異なるだらうか。・・・今日も寒くて、外は少し風もあるのでずつとぼんやりしてゐた。さうして直ぐに頭に浮かんだのが先のことであり、続いて篠田桃紅の作品を連想し、彼女の短い文章にあつた散歩の話を思ひ出したのだつた。散歩の途中にある墓地を抜けてゆく。看板があつて、《お墓のなかで / いたずらしたり / 遊んでは / いけません》。お墓のなかと墓地は勿論異なるだらうけれど、意味は同じ形をつくることがある。 某月某日 形が同じものなのに意味が違ふこともある。3481 と 81 は、なにを意味するだらうか。電卓を僕は直ぐに使つてしまつたけれど答はさう難しくない。10進法は便利な考え方であるが、なぜ60進法が存在したのだらうか。√ を発見したのはピュタゴラスだらうか。彼自身の定理から異質なものが生まれてくるのも不思議であり、愉しい。 某月某日 最近、寝転んで本を読むことが辛くなつてゐる。活字を読むことが苦痛なのは明るさが原因のやうである。寝転んでゐると灯りから距離が遠い。眼鏡は面倒だからかけない。特に眠くなる瞬間の快楽に其れは邪魔でもあるから。・・・「情事の終り」の文庫本が二冊ある。最近になつて其れに気づいたのだが、活字の大きさが違つてゐる。さうして、大きい活字の方を再読した。僕が、グリーンの小説を好きなのはなぜだらうかと考へる。おそらく、本が重要な役割を見せるからではないか。 某月某日 此れは翻訳も出てゐるだらうけれど、Feminism for beginners を読む。と云つてもぱらぱらとやつただけであるが。其の最初の方に Sor Juana のことがでてくる。彼女の詩のやうなものを読みながら、篠田桃紅の書いてゐる透谷の妻の話を結びつけたくなつてしまつた。北村ミナは桃紅の英語の先生だつた。透谷が自殺した後、幼い子を残して亜米利加へ行く。英語教師として彼女は如何に生きたのだつたか。 某月某日 或る若い人が結婚した。僕は其れまで知らない人だつたが、彼に拠れば、仲人はなく新婚旅行は近くの遊園地だつた。ドチラも僕は驚いたけれど、仲人がゐないのは最近の流行のやうでもある。面倒な柵はゐらないだらう。しかし、大勢の会社の人をよんだのだから、其れも詰まらないなあと思ふ。結婚がさうしたことで喜びを半減する気がするのは僕の天邪鬼だらうか。 某月某日 透谷の全集と「ミドル・マーチ」を机に置いて、上記のことを思ひ出したのだつた。 某月某日 僕も電子辞書は重宝してゐる。寝転んでクロスワードを読むときは便利である。机の上に新聞を置いて読む習慣は僕にはない。國語、英語、独逸語、仏蘭西語、伊太利亜語などの電子辞書のほかに、シェイクスピア全集や「神曲」などが入つてゐると便利だらうなあ、と空想する。好きな言葉を検索して遊ぶことができるだらう。例へば、恋を検索して、「十二夜」から。《阿呆の住みにくい時代になった》 某月某日 ペンギン文庫の TEMPEST の解説を読む。 某月某日 恋を検索して、鯉が出てくるくらいがコンピュータの限界だらうか。「あらし」も「十二夜」も不思議な魅力に富んでゐる。機械は其の不思議さを導き出してくれるだらうか。僕は、悲劇は苦手である。オリンピックの招致の近未来の、其の愚かさと「十二夜」がなぜか僕のなかでは関連する。まつたく、《阿呆の住みにくい時代になった》 某月某日 暗くなつて散歩に出る。本屋を廻り、珈琲を買つて、右手左手と持ち替へながら帰宅する。既に寒くはないのだけれど、僕は習慣のやうに上着を着てゐたから汗をかいた。若い人たちは殆どが夏服である。欧羅巴では若い人と老人の夏服の落差のやうなものを感じたことを思ひ出したけれど、自分が老人になつて、夏にコートを着てゐるのも悪くはないと思ふやうになつた。・・・若い人は古い小説は読まないだらう。書店の棚にあるのは新しい本ばかりである。どれが面白いものなのか。古本屋では、特別汚れてゐたり、背が読めなかつたりするやうなものに面白いものが見つかる。 某月某日 年間500冊の本を買ふとしたら、新刊本は10冊にも満たないだらう。殆どが古本である。そして、はじめて読むやうな古本は100冊位だらうか。大抵は処分した本や探すのが面倒で再度買つたものが多い。さうして、若い人に差し上げることも多くなつた。 某月某日 例へば、古本屋で斯様な本を見つけた。「花屋の日常」と云ふ本。著者は、勿論、花屋を稼業とする。彼が内田光子のコンサートに花を贈る。其の文章が愉しい。本は、1995年の発行である。なかに著者の名刺が入つてゐた。花おぎ木村生花店、とある。かうした本は贈物に最適だらうなあ。 某月某日 例へば、「ヒューマン・ファクター」。全集版の25巻目である。十年を隔てて読みたくなる。解説は宮脇孝雄。彼は、同じ古い歌を歌つてゐると書いてゐる。確かにさうであるが、僕は、最高の傑作として読む。細かな処をいつものやうに忘れてゐる。「 Clarissa Harlowe 」の事は忘れてゐた。 某月某日 空さんが、「蟹工船」のことを書いてゐた。若い人たちが読んでゐると云ふのは驚きである。小樽は伊藤整の印象が強い。彼の小説に多喜二は出てくる。《極限の状況におかれても、人間の子供というものは、大人が思うほど、深刻で悲惨なことばかりを感じているのではない》と、新藤凉子が書いてゐたけれど、其れも一種の抒情かもしれないと空想する。 某月某日 いつも部屋に籠つてゐると散歩以外に出掛けてもみたくなる。しかし、億劫な性格である。其れで普段読まないやうなものを買ふことになる。「野宿」の本だとか、「ロープ」の本だとか。どれも大抵は書名が気に入らないので書かないが、悪くはないのです。本当の自然は、僕は苦手である。細君の友人が目高をたくさん分けてくれたことがあつた。彼女の話では増へて困るくらいだと云ふ。コチラも水槽を買つて水草も用意したけれど上手くゆかない。僕は友人に甲虫を取つてくれと頼んでゐる。彼はゲーム・センターでは veteran である。テレビでは、東京のビルの屋上で養蜂ができるとあつた。蜂蜜に興味はないけれど、蜜蜂は愉しさうではないか。目高と蜜蜂は似てゐるやうな気もする。子どもは呆れた顔をする。 某月某日 今日は、棚から「蜂アカデミーへの報告」を出してきた。子どもに是非読めと薦めたが、断られた。僕の子どもは、多喜二も明生も読まない。 某月某日 歪んだ林檎が一番美味しいと云ふやうな話が Sherwood Anderson の小説にあつたやうに思ふ。ネットで調べると the twisted apples である。なぜ斯様な事を思ひ出したのかと云へば、長谷川テルの事が鳥渡気になつてゐて、彼女の生涯の短さと緑川英子と云ふ名前(ペンネーム)と Verda Majo の名前が僕の頭のなかで混乱を生じ、歪んだ林檎を連想させたのだつた。 某月某日 あの林檎は赤いのだらうか。青いのだらうか。 the twisted apples を何と訳すべきか判らないけれど。 某月某日 林檎の連想は、知らない人には不可解かもしれない。 Sherwood Anderson は、ネットで簡単に読めるので是非読んで下さい。中年の医者と結婚した若い妻が、一年後に亡くなつたのはなぜか。彼がいつもポケットに紙屑を丸めて入れてゐたのはなぜなのか。其れより先に、なぜ若い女が中年の医者と結婚したのだつたか。 某月某日 Lento / Largo / Adagio / Andante / Moderato / Allegretto / Allegro / Vivace / Presto 伊太利亜語の速度を表す標語である。Adagio の英語の対応は Slow である。しかし、本当にさうなのだらうか。Moderato は Medium だらうか。メトロノームのことは以前に書いたけれど、以下のやうな式を音楽理論の本のなかに見つけると、僕の愚かな頭のなかは・・・。 M.M.=(60×notes×bars)÷sec. bars=(M.M.×sec.)÷(60×notes) sec.=(60×notes×bars)÷M.M. 某月某日 上記の速度とは、つまり、テンポのことである。其れが一つの時間を作る。音楽は時間の芸術でもある。・・・其れは短篇小説を読むときにも重要な場合があるだらう。幾つかの短篇小説をメトロノーム記号で表示したら面白いだらうなあ。そして、アポリネールとアンダーソンと直哉では國籍も異なる。「紫式部日記」は如何に読むべきだらうか。高校の古文の先生が其の読みのテンポを授業に取り入れてゐたら驚くだらうなあ。古語辞典と共にデジタルのメトロノームは必携ですよ、と。 某月某日 教室で古語辞典も漢和辞典も使つた記憶がない。しかし、古文や漢文の勉強に必要だと云はれた。本当にだれかがさう云つたのだつたか。其れから同じやうな辞書は幾冊も買つたけれど、必要だと感じるやうになつたのは老人になつてからである。言葉を知らないのは若い頃の方が多い筈なのに、現在の方がもつと言葉を知らないと思ふやうになつたから不思議である。《卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書きしを空海大師開基の時、日光と改め玉ふ。》なんて文を読むとき辞書は要らないだらう。或いは、《 Il y a deux sortes de constance en amour: l'une vient de ce que l'on trouve sans cesse dans la personne que l'on aime de nouveaux sujets d'aimer,et l'autre vient de ce que l'on se fait un honneur d'etre constant.》のやうな仏文も。(但し、一部不正確な引用ではあるが。)・・・勿論、芭蕉やロシュフーコーが簡単に読めると云ふ意味ではない。中学や高校生に辞書は要らないと思ふだけである。 某月某日 なぜなら、僕は勉強もしなかつたからか。此れは奇妙な論理である。「情事の終り」のなかに、小説家である私を批評する男の話がある。かれはモームよりもましである、と云ふ。なぜなら、かれは流行作家である。しかし、私はまだ・・・と云ふことであつた。・・・では、? 某月某日 グレアム・グリーンのなかにいつもあると感じる反対対立の二面性。或る本に以下のやうな英文があつた。If I were a bird, I could fly. いつも斯様に考へるのが英國人だらうか。其の簡単な英文は論理学のなかにあつた。 某月某日 此の國でも大きな地震があつた。竹林の近くも揺れたけれど、僕は寝てゐた。体温の調節が巧くないのか、いつまでも寝てゐることが多くなつた。本を読んでも積極的な愉しみ(妙な表現ではある)が薄れてきたやうな気がする。・・・「昭和文学交友記」を読みながらも友人たちの死ばかりが目立つやうな気がしたのだつた。最初に読んだときの記憶とは随分違つてゐる。 某月某日 森玲子「壺井栄」を読む。 某月某日 「二十四の瞳」を僕は読んでゐないので鳥渡恥づかしいのであるが、木下恵介の映画も有名である。森玲子の本には、小豆島のロケで同じ著者の「暦」も同時に撮影中であつた話が出てくる。遂には壺井栄も島にやつて来る。・・・或いは、佐多稲子、宮本百合子、壺井栄と繋がる。其れが「大根の葉」である。 某月某日 「おいる」も「ふける」も同じ漢字だと云ふことを宮迫千鶴が書いてゐた。さうして彼女の本を読みながら、幾冊かの本が「老いる」ことのテーマのなかに出てくるのだが、興味を持つたのは「キャサリン・ヘップバーン写真集」のことだつた。ネットで調べると、The private world of Katharine Hepburn (1992)とある。 某月某日 「おいる」と「ふける」は同じやうで意味が異なる。「松虫」と「鈴虫」は僕の頭のなかで混乱する。「源氏」では其れはドチラだつたか。名には違ひて、命のほどはかなき虫にぞあるべき。久しぶりに「源氏」をぱらぱら。 某月某日 今回のブログは、はじめ、イエイツの詩の後期のイメージから書き出して、イエイツとモード・ゴーンに係る詩を後半に、時間を逆行させながら、叡智と無知についての題材にする計画を頭のなかに描いて始めたのだつた。まだ、十代の頃にイエイツの入門書を幾冊も買ひ集めたことがあつた。僕は、いま、其れらをぱらぱらやりながら、老年の詩のことに全く興味がなかつたことを思ひ出した。何と時間の変化の早いことだらうか。 某月某日 澤地久枝「私のシベリア」を読む。 某月某日 「デカブリストの妻」は棚のどこかにあるだらうが、読んだことはなかつた。さらに、菅季治のこと。戦後のシベリア抑留のこと。此の場合のシベリアとは、一つのシベリアだけを意味してはゐない。無数にあつたシベリアの抑留の意味はなにか。なぜわれわれはそれをシベリア抑留と呼ぶのだらうか。・・・いつまでも解決しないのは、叡智と無知。 某月某日 無数にあつた戦後のシベリア抑留。アウシュビッツも同じだらう。僕たちは戦争を知らない。彼らは戦争を語らない。なぜ? 某月某日 老人たちはなにも語らない。・・・此処で、今回のブログは終り。 次回 予告 「美は痙攣する」 〔あなたとは誰か。あなたは存在しない。否、美は存在しない。1928年に、最初の本は出版された。標題としたのは其の本の最後に出てくる。此の本は奇妙な本であつて、短篇小説として読むならば理解に苦しむ。同じ苦しむならば仏文で読んだ方が良いのかもしれない。彼は皇帝である。彼は自分の玩具箱を曝け出して見せながら、自分たちの帝國をつくる。勿論、帝國はいつか崩壊する。彼は、最初から帝國はなかつたと嘯くだらうか。帝國は如何にして生まれたのか。しかし、僕の興味はさうしたことにはない。彼や彼らは自分たちの帝國の崩壊を予め予知してゐたのかと云ふことである。・・・皇帝は大抵、Nero の如く残酷である。其の帝國に Seneca はゐたのだらうか。〕 |
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