愉快な散歩或いは読書

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<<   作成日時 : 2012/03/01 00:42   >>

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「現在」がいふ 自分は「過去」だと
                  ボードレール




某月某日

予測通りに都心は雪になる。信号機に積つた雪が地上へ落ちる。滑り落ちるのを見てゐると其の小さな塊でも重さを感じるのだらう。朝のテレビでは舗道を滑らないやうな歩き方を解説してゐた。昨夜に続いて今夜も地震である。僕はいつものテレビを見てゐた。Helen Merrill が Clifford Brown を語る。チェスが上手だつたと云ふのが嬉しい。画面には地震速報。だれもがそれにふれないのがいい。細君はハングルを念仏のやうに唱へてゐる。そして、午前五時に起してくれと。

某月某日

午前四時半起床。震災から約一年が過ぎて反定義を再読。天気予報に拠れば散歩日和か。

某月某日

昔杉浦明平が文学者と歴史学者の違ひについて語つて細部に拘るのは前者のやうでと。或るつぶやきのなかでみる若い人らに急ぐことはないと云ふと急ぐな! と解釈するやうで彼や彼女らは多分多くが真面目にさう考へるやうで僕は不思議な気もしたのだつた。読書の愉しみ面白さは梅の開花と似てゐる。・・・昨年の目白は今年もやつて来るだらうか。と書いてから辞書を引く。季語は夏とあり、或る歳時記には秋とある。特に椿の蜜を好むとあつた。彼らは単独で遊ばないのか。迷子の目白よ。

註 梅も椿も季語は春。

某月某日

司馬江漢は七十歳で己の過ちを知ると書いた。彼は源内と同時代の人である。死の少し前にかう書いたことが面白く深夜テレビも愉しくなく彼の箴言の術中に陥るやうな気もする。頗る悧巧な人だつた。顕治に宛てた百合子の書簡にウルフのことが書いてある。また、網野菊が翻訳したギャスケルのブロンテ伝のこと。彼女の才気あることはよく知られたことであらうが、旧全集では四巻もあるのに横道へ註へ滑るのは老人のみか。

某月某日

江漢とウルフを一つに考へることは奇天烈と云ふべきだらうが僕のなかで愉しい思考が始まる。細君が羽田へ出掛けたので留守番である。ブロンテ伝はネットで読むことができるけれど網野訳を探してみたいと思ふ。斯様なことは頭の空転であらう。部屋に引き籠つて漢詩を読む。子規とコーラと鳴雪で句の出来る面白さ。

註 鳴雪忌は春の季語。仙人や霞を吸ひて・・・は僕の好きな句である。

某月某日

或る御婦人のコメントを読むと蒲団は若い女性に人気であると。近くのスーパーへ行くと名前が変はつてゐる。駅ビルの名称も変はつた。ドレモ驚くことばかりである。書店には芥川賞二作の掲載雑誌が山積されてゐる。手にもしなかつたけれど、野球選手名鑑の種類の多さには驚く。既に我が家にも一冊ある。数日前散歩の土産として正確な名称を知らないのだけれど野球カウントチェッカーを子どもにあげたばかりである。ナイターに見る夜の土不思議な土。誓子の句。ナイターは夏の季語であるが野球は?

某月某日

ミステリを読むとよく判らない単語に出会ふことがある。英語の文庫ではなく翻訳である。誤訳ではない。五十年代の海外ミステリに多いやうな気がする。其れが再版されていまも書店に並んでゐる。犯人を追ふ Henry Tibbett の如く僕も苛苛することがある。そして捻くれた発想で我慢する。辞書は新しい方がよいとは限らない。時時 You Tube をみる。Cilla Black は小学生の頃から好きだつた。ビートルズのリヴァプールで生まれた。Cilla Black = Priscilla Maria Veronica White 鳥渡 Henry Tibbett のミステリのオチに似てゐる。

某月某日

所要で外出の車内で御婦人が本を読んでゐる。散歩のときも乗物のなかでも本を持つてゐる人を見かけると直に反応するやうになつた。週刊誌を持つ人さへ見かけなくなつたのは鞄のなかに入れてゐるからなのか。僕は百合子の書簡の続きを読んでゐた。気になつて彼女の方を見るとローザックの大きな本を僕と同じやうに表紙も外して読んでゐるのだつた。声をかけたくなる位に嬉しくなつた。そして直に蕪村の春風馬堤曲を思ひ出してゐた。たぶん蕪村の前を歩いてゐた人は娘ではなく年増だつたのではないかと云ふのが長い間の疑問である。

某月某日

アーティストと云ふ言葉が嫌ひである。歌手も漫才師も幇間もさうだらうか。今様ならば名人と云ふべきだらう。蝦まじりの雑魚やあるとは梁塵秘抄。自らは歌ひ手の声にふるへる塵の如しか。

某月某日

昼食のあと仏蘭西語講座。Marguerite Duras の話。発音も文法も殆ど気にはならないのであるがマルグリット・デュラス = Marguerite Duras ではないと云ふのがいつも僕自身のなかにある。浮雲を再読する。坪内逍遥は彼の天才に驚いたやうであるが現代にはない奇蹟のやうな気もする。文学を人生を突き放してみる面白さ。しかし未だ勉強不足。

某月某日

或る人のブログに書棚のなかの女性と云ふ記事があつた。其其の女流作家の顔写真と共にコメントがあつて面白い。数日頭が悪くなつて恵信尼の書いた書簡も上手く読めない状態である。今年も薬を飲んでゐるけれど眼も辛いのである。

某月某日

数日ぼんやりした頭で錠剤と眼薬を放すことができない。親鸞と梁塵秘抄の和讃。俳諧と万葉集。ドチラも面白くなつてゐるのに直に気力が薄れる。いまはブログを休止中の或るひとのつぶやきをみる。そして問題はだれのつぶやきであつても現在から過去へと辿ることの意味があるのだらうかと考へる。例へば Rebecca Brown の The End of Youth の方がよりリアルとでも云ふべきではないか。と思ひつつも現在を表現することの手段の一つとして否定しないけれども彼女が再びなにかを書き始めることの方を期待する。

某月某日

昨日は終日面白いテレビ番組がなかつた。ルノアールの話を途中から見ただけである。夜遅くなつてからハリウッドをカバンにつめてを読む。Sammy Davis Jr.の此れは自伝の続篇ではないけれど(当時の)現在を語る面白い話の連続で時間が過ぎた。

某月某日

昭和三十年代の半ば以降に書かれたであらう犀星の龍之介に関する短いエッセイがある。彼の書いたもので此れ以上に面白いものを知らない。芥川は書物のなかの人でいまも生きてゐるとしたら・・・と云ふやうな空想の遊びでもあり愉快である。彼はいまでも短篇小説を書いた。否書けなかつたかもしれない。大家になつてゐて谷崎た志賀と肩を並べてゐる。故に稿料は高価である。短篇の技量はさらに向上し気がつけば書物のなかに帰つてゐる。確かに斯様な空想もあるだらう。では何故彼は書物から出てきたのだらうか。

某月某日

村松定孝が若き日にはじめて鏡花を訪ねた話を読んでゐると当時の様子も面白いのであるが何故か折口信夫のやうな潔癖さもあつて花粉症で悩んでゐる頭のなかでは二人の作家は入れ替はつてゐることに気づく。折口に妻はなかつたけれど鏡花には鈴がゐた。彼は喫煙者であるが其れは煙管だつた。二階にあつた仕事場へ妻は火種を運んで行く。そして荷風の勲章を再読した。読書も此れがやつとである。

某月某日

昨日の勲章は荷風だつたけれど今日読んだ勲章は幸田文である。僕ははじめて読んだ。初期の短篇ではあるが露伴と彼女の性格が特徴的である。若い頃から小石川の周辺をよく歩いたけれど文の転換点と東京オリンピック以前の其れは地図と年表で遊ぶことができるかもしれない。

某月某日

露伴の娘が幸田文である。文の娘が青木玉である。彼女が書いた両親のことから二人の女の微妙に異なる気質が面白い。今日も短篇を一つだけ読む。日本三文オペラ。プロレタリアの時代と転向の時代であつたとしても武田を其のなかに組み込むのはズレが生じるかもしれない。佐々木基一が過程の人と確かさうだつたと思ふけれど云つたことが一番納得できる。百円ライターのやうなケースの奥に錠剤が挟まつて出てこない。武田の小説の多くがさうした状態ではないか。僕自身の薬がなぜ斯様なものに入つてゐるのか。武田の不幸と僕の其れが等しい訳ではないが・・・。

某月某日

川崎から溝口まで歩いて・・・忘れてゐた短篇を読む。いまではとても歩くことはできないだらうが。と書いてから否充分に此の距離ならばと考へたが今日は雨。独歩を読むと時代の距離感の不思議。斯様な意味では詩人である。そして旅をすると云ふことはさうした経験でもあるのかもしれない。

某月某日

仕方なく飲んで深夜に帰宅する。男二人女二人の駅前にあるいつもの店。僕だけが老人で他は若い人である。一人は中國の女性で僕ははじめてスマホを使はせて貰つた。すべて中國語である。明日には iPad が届くと云ふ。彼女の髪は金髪である。僕は未だ Windows 7 の外國語への変換を知らない。此れは文明なのだらうか。・・・細君からは午前五時に起してと。

某月某日

日曜日細君はコンサート。Peter Gay の短い Freud に関するエッセイを読んで武蔵野夫人を再読する。

某月某日

僕が高校生になつた頃の四月もよく風が吹いてゐた。石川淳の短篇を読み、図書室には全集もあつた。昨夜は、就寝前に神経さんを読んだ。ドチラも戦後の風景が見える。でも、同じではない。彼らは、風に吹かれて何処へ行つたのだらうか。大岡の此の短篇に驚嘆する。

























積る言の葉。

留女は直哉の短篇集である。娘の名前でもある。濁つた頭は太宰が参考にしたかもしれない。僕は、鳥渡別な考へを抱くけれど。そして、彼が隠してゐたものは何か、と。十五、六歳の頃、作家はまだ生きてゐた。近くの宮益坂の古本屋で、僕は VOU を買つて辺を歩き廻つた。見かけても意味はなかつた。

季刊歌舞伎が復刊されて、其の最初の特集は南北だつた。四谷怪談を、文化文政の社会のどん底を描いたものとしたのは鳶魚幽人である。其れは芝居ばなし第二篇にある。江戸は爛熟の時代である。そして、元禄享保の現在を描いたのが南北と云ふことになる。昭和も同様の一時を経過した。いまは夢、音羽屋!

料理の本を読みながら思ひ出したのは、皇居の白鳥とテムズ川の白鳥の事であつた。と云つても野鳥観察の話ではなく料理の話である。其れは繪画論に始まり、サヴァランに至る。経緯を僕は此処で説明できないけれど、書いたのは河上徹太郎である。怪奇な随筆とも読める傑作な短篇である。オチも書けない。

名を匿して、人眼につかぬ誠実と書いたのは中村光夫だつた。若い人は其れを惹句と見るかもしれない。嘗てはみな批評はさうだつただらう。小林の尊敬が其れを壊したとは云へないか。そして、僕は批評の文学史を知らず、誠実の自由も見ないのである。ジョイスの聲はバスだつたやうだが、無論、上下無用。

昭和十年代のはじめに、大森義太郎が國の政策にケチをつけてゐる。此の時代の文学には考察すべき余地が多いけれど、文学の話ではなく、外國映画の輸入についてであつた。いまでもルノワールの映画を観るけれど、斯様な事は僕も忘れてゐた。彼は経済学者だつたが、既に火粉は大衆にまで及んでゐた。

祭りの場をはじめて読んだのは群像に掲載の時。いま、雑誌も単行本も何処かに埋もれて見えない。雨の一日は、其の文庫本を買つて読む。著者から読者への中に、二つの命を描き、通底するものを読む。版元はふりがなをおおめに加えた、と最後に記してゐる。しかし、老人が再読すべき本ではないのか。

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