若い人のために、周遊切符と「宇宙的孤独」の想像力
序でだから序なのだらうか。・・・既に八月の半ばになつてしまつた。若い人とは違つて体力も気力も衰へてゐるので老人は竹林の小屋から出ない。旅も散歩も控へて空想のシナリオを描く。さうして鳥渡旧くなつたガイドブックを頼りにする。残りの時間は寝るだけである。・・・戦後の文学を朝鮮戦争を境にして区切る考へ方がある。(平野謙)朝鮮戦争は1950年。僕は平野説に拘りはないのだが、一つの手掛かりをこの辺りに置いてみる。勿論、敗戦の年であつても構はぬ。
空想的社会主義者のシナリオ。・・・電車やバスに乗ると、僕の若かつた頃とは違つてゐるのは「優先席」の存在である。その呼び名も変化した。それを辿つて見れば面白いかもしれない。近い未来に若者たちの数が減つてこの国は文明の先をゆく手本となるだらう。戦争へ行くのも兵士たちの高齢化によつて、進駐も戦闘も新しい手本を生み出す筈である。新しい軍事国家が誕生する。兵卒の高齢化。武器は軽さを重んじて竹槍である。・・・さうして車内の「優先席」も若者たちのための席にその意味は変化するだらう。
老人は葉山の海を回顧する。・・・僕はこの真夏の盛りに幾つかの本を拾い読みした。さうして、幾冊もの本のなかに共通して現れたのはジャコメッティであり、別の分野のものからは寺田透が出現したのだつた。ジャコメッティは瑞西の彫刻家である。画家でもある。《大変親交が深かった。私たちの間には、常に暗黙の了解というものがあって、心からのふれ合いができた》(バルテュス)。《古典主義の反対に立って、ジャコメッティは彫像たちに、部分のない、想像上の空間を回復した。一気に相対性をうけいれて、絶対を発見したのだ》(サルトル)。ジャコメッティの生涯は絶対の探求のそれであつた。(1901年~1966年)。さうして、此処に一枚の写真がある。見開きの頁の左側には動きのあるレイモン・クノーのベタ。右側の一枚が1958年のパリのカフェでの、指のあいだに煙草を挟んでゐるジャコメッティ。写真家はロベール・ドアノーである。彼は此方を見てゐる。さらには中京の母より教へて戴いた加藤周一の文。それは「稱心獨語」(1972年)のなかにある。僕はすでに此処に収録された幾つかを読んでゐたけれど、加藤のこの美しい本にあらためて満足した。装丁は渡辺一夫である。
高齢だから老人なのではない。・・・昨夜、テレビでベートーヴェンの「第九」の第4楽章を見て、横になつて聴いてゐた。それは昨年の12月の録画であつて、建礼門院殿が「転寝」と称して出かけられたコンサートであるだらう。その数日前にも僕はフルトヴェングラーで「第九」を聴いたばかりだつた。12月に僕は、恒例と称して「第九」を聴くことを好まないが、夏の季節には自分の活力になるやうな気がするのである。暫くネット接続が不良で小さな本の山の一つを整理してゐた。そこにあつた2冊の小さな本。どちらも忘れてゐる。(凡そ30年も過ぎると人間の記憶は、殊に読書などの経験は記憶の片隅からも消へ去るやうである。)その2冊は、岩波新書の(黄版)1冊と(青版)1冊である。「自伝の文学」(中川久定)と「孤独の対話」(山根銀二)。そして後者が耳の悪くなつたベートーヴンの遺された「会話帖」からの考察である。《第九交響曲はこの年にも第一楽章から順を追って纏めあげられていった。ベートーヴェンの作曲の仕方は、スケッチのときには必ずしも順を追ってゆくわけでなく、かなり前後入りみだれてすすめられるが、いよいよ纏める段になると第一楽章からとりかかり、順を追って進んでゆく》(山根銀二)。つまり、この年とは1823年であつて、これを作曲年としてゐる。
8月の半ばだから敗戦のことを考へるのではない。・・・偶々、伊藤整のことが気になりだして、十代の頃には彼の熱心な読者だつたことを思ひ出して、全集とその年譜を眺めながら、しかし、あの有名な「鳴海仙吉」は読んでゐなかつたのではないか、と云ふことに至つたのだ。何故だらうか。当時、彼の作品は新潮文庫と角川文庫で読むことができた筈である。さうしていま、「鳴海仙吉」は岩波文庫にある。切欠はここ数日の読書の寺田透「伊藤整論」にある。「鳴海仙吉」は敗戦の翌年から書き始められてゐる。単行本は昭和25年である。つまり、1950年。そして、「チャタレイ夫人の恋人」の刊行。
戦後の年表を睨んで1950年までの文学作品を列挙してみる。「踊子」「灰色の月」「暗い絵」「白痴」「桜島」(1946年)。「深夜の酒宴」「斜陽」「蝮のすゑ」(1947年)。「崩壊感覚」「俘虜記」「人間失格」「永遠なる序章」(1948年)。「私の東京地図」「仮面の告白」「山の音」(1949年)。「武蔵野夫人」「鳴海仙吉」「異形の者」(1950年)。これらの選択は私見が絡む。故にこれをその代表だとは云はない。・・・さうして、「新古今集」の時代のことを考へてゐた。「平家物語」の時代である。すると戦後の文学の活況はその時代によつて生れたのではない、と思つたのである。おそらくは昭和のはじめの時代と関連してゐるのだ。「玄鶴山房」「施療室にて」「歯車」(1927年)。「キャラメル工場から」「卍」「真知子」「放浪記」(1928年)。「蟹工船」「太陽のない街」「浅草紅団」(1929年)。
伊藤整「鳴海仙吉」を寺田のヒントで読む。つまり、それは笑いでありユーモアであるのだ。《鳴海仙吉は自殺もせず、革命もしませんでした。将来もしないでしょう。彼は飴色縁の眼鏡をかけ、鼠色のダブルの洋服を着、革鞄を持って、智慧あり顔に街を歩いています。君のように、また作者のように。》
或る日の散歩。神保町で、鳥渡気になつた著作集があつた。この研究者の名前も知らなかつたので僕はそれを読むことも出来なかつたくらいである。出版社の名前もはじめてである。いまでは後悔してゐるのだが、帰宅してから書庫の「日本古典文学大系」(岩波書店)と「日本古典集成」(新潮社)を見て知つたのである。僕は若い頃から「万葉集」の抒情の意味が感覚的によく理解できなかつた。一般の読者のための案内書のほとんどに不満であつたし、無知でもあつた。《田兒の浦ゆうち出でて見れば眞白にそ不盡の高嶺に雪は降りける》なども面白くなかつた。《共同体的な歌謡と袂を分ち、個性詩への志向のうちに抒情詩の生誕、そして発達、完成をみたのが、他ならぬ万葉集の歌々である。》《日本の文学は万葉集の成立において、早くも抒情詩の完成をきわやかに遂げたということができる。西欧古典の叙事詩や劇詩の代りに、いち早い抒情詩のかたちで、東洋の中国詩よりもある意味でいっそう純粋なすがたで、開花をみた万葉集は、たしかに世界の文学の中でも類い稀な一大詞華集である。》(青木生子)
深夜のテレビで諾威映画「ソフィーの世界」を見る。懐かしい諾威語と(映画の中では)夏至祭の笑ひ。この夏の半ばの愉しいユーモア。さうして遅く起きた朝にはこの国の愚かさの代表のことがニュースになつてゐた。天候も変化の兆し。プラトンの洞窟のなかのやうな天気。宝石のやうな朝ではなかつた。パソコン机の下からはブルクハルトが出て来た。《ダンテこそ、軽蔑の表現において、世界のあらゆる詩人を凌駕する者であり、たとえば詐欺師どもを描いた地獄のあの大風俗画だけをもってしても、巨大な喜劇の最高の名人と呼ばなければならない。》ブルクハルトは、その註でダンテに比較できるものはアリストファネスだけだと云つてゐる。
空想的社会主義者のシナリオ(II)。・・・マルクスがマルキシストではないのは当然である。が、軍国主義者ではなく平和主義者だから好しとするのは軽薄であるだらう。この国にも他の国にも平和主義者である軍国主義者は幾らでもゐてそれは論理矛盾にはならない。軍国主義者である平和主義者も多い筈である。前者と後者が同じなのか違つてゐるのかの議論は困難を極める。Anamne さんのブログでの本の紹介にあつた「モダンガール」論に昨夜の僕の思考は停止してしまつた。さうして眠りのなかでその考へが誰のものだつたのか老人の考へだつたのか酩酊したやうに見境がつかなくて困つたのだつた。漸く今朝になつてAnamne さんのことに至つたのである。さらに連想してゐたのは、先日読んでゐたニコルソン・ベイカーの小説「フェルマータ」である。fermata は伊太利亜語で、音楽用語。それは「停止」を意味する。これから先は想像して下さい。
「万葉集」についての若き日の違和感のやうなものについて少し触れました。そこにあつたものは抒情でした。伊藤整は詩集「雪明りの路」から出発してゐる。この詩集はいまでは簡単に読むことができないにしても、この辺りのことは「若い詩人の肖像」や「青春」や「鳴海仙吉」を読めば済むかもしれない。彼は、中京の母が指摘されてゐることを繰り返し描く。これを伊藤整の限界とみることも可能である。しかし、僕には抒情の一つの限界ともみへるのです。彼はその後を如何に描いたのか。おそらく選択の道は当時二つあつたと思ふのです。プロレタリア文学とモダニズムの文学。小説のなかには小林多喜二のことも描かれてゐますが、彼はジョイスやロレンスの方を選択した。さうしてモダニズムの文学はすぐにも破綻する。つまりはどちらの選択をしたとしても破綻したのでした。後半の伊藤の「氾濫」や「変容」はおくとして、「日本文壇史」の方へ、が象徴的な気がします。僕は、先に、青木生子の「万葉集」解説の一部分を引用しました。その時の僕はモダニズム的に理解し読んでゐました。これは青木生子の限界ではなく、僕の読み方の限界でもあります。しかし、僕には、好く理解できるやうな気がしました。端折りますが、伊藤整も結局は抒情を切り離すことはできなかつたと思ひます。伊藤整も加藤周一も批評において抒情の危さを何処かに感じてはゐたと思ふのです。「小説の方法」や「芸術は何のためにあるか」のやうな評論集とともに伊藤整は、「女性に関する十二章」や「伊藤整氏の生活と意見」を書かなければならなかつたのではないか。さうして「日本文壇史」の方へ。
老人だから笑ふのではない。・・・「笑ひ」のアンソロジーを考へる。例へば柳田國男、ベルグソン、ダンテ、ラブレー、大西巨人。その果てにあるものは悲しみ。故に老人は笑ひを好むのだらうか。《私たちは目隠しをしたまま現在を横切る。私たちにできるのはせいぜい、自分がなにを経験しつつあるのかを予感し、推察することくらいだ。のちになって目隠しが解かれ、過去を検証するときになってやっと、私たちは自分がなにを経験したのかに気づき、その意味を理解するにすぎない。》(ミラン・クンデラ)果たして追込まれたのは笑ひだつたらうか。
補足的なメモ。・・・「悪の華」も「ボヴァリー夫人」も、一つの時代にあつた。彼女は、最後にも笑つたのだつた。《無気味に、狂いじみて、絶望的に笑った。》(「ボヴァリー夫人」) コメントにも書きましたが、映画と原作は困難な関係にあります。映画としては不出来ではあつても、これは僕の空想ではありますけれど、哲学の歴史の断片を寄せ集めてみても面白くはない筈です。しかし、あの最後の笑ひのなかに、認識の始まりが隠れてゐるとも思へてくるのです。フーコーを捩つて、知の考古学と云つても好い。深い悲しみのやうな・・・。
補足的なメモ(II)。・・・逆説的ではあるが、抒情から出発してその陥穽に陥らなかつた批評家は二人ゐる。小林秀雄と保田與重郎である。《ヘルマンとドロテア、あんな他愛のない恋愛を書いてゐるでせう。何にもエッケルマンの対話には出てゐない。》(太宰治) これは批評の問題ではなく作家の側のことを太宰は云つてゐるのである。僕は、この酩酊した太宰の発言から高橋和巳の小説の抒情を想起する。
補足的なメモ(III)。・・・僕は、興味を持つて読んだ英米の二人の作家がゐる。ダナ・タートとジャネット・ウィンターソンで、ジャネット・ウィンターソンとニコルソン・ベイカーの本を訳してゐるのが岸本佐知子。僕には、訳者で購入する二人の翻訳家がゐる。浅羽莢子と岸本佐知子である。この亜米利加と英吉利の女流作家たちは寡作な作家である。浅羽莢子の重要な仕事はセイヤーズの翻訳だらう。岸本佐知子は、僕などよりも若いからこれからかもしれない。と、詰まらぬ空想をしたのは、「ボヴァリー夫人」の翻訳と「第二の性」の翻訳の差異である。おそらく、差異や落差なんてものはないのだらう。30年も昔に読んだ二つの本はそのまま今日も読むことはできるだらうか。そのことは「ユリシーズ」の翻訳の変遷とは異なるだらう。
補足的なメモ(IV)。・・・勿論、文学史が小説の歴史である訳ではない。その中心に小説を置くことは今日では常識である。さうして歴史のなかで「文学の常識」を再び考へることは悪くはないだらう。但し、戦後のこの国の文学の中心にあつたのは小説で、すでにそれは今日的な中心にないとしても。僕はもはや辛うじて小説の読者に過ぎないのである。《夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも》から「堕落論」や「如是我聞」や「可能性の文学」までを見ながらの僕の空想は、戦後の文学が、殊に戦後派と呼ばれる人たちの新しさにあつても昭和のはじめの先の図式と関連するのではないか、と。だから、以前「文学的立場」の同人たちは昭和十年代の聞き書きをしたのではなかつたか。
補足的なメモ(V)。・・・義父より梨が届いて最初の一つを朝食に食べる。八月の半ばが過ぎて急速に夏が終焉するのがこの国の特色である。しかし、この暑さはまだ終らないだらう。故に、僕は女ともだちへ進言するのですよ。お出掛けは涼しい季節になつてからでも遅くはない。ホッファーから古代アテネの時間への旅をお薦めしますよ。エウリピデスからの引用。《富める者に特権をあたえず、貧しき者も平等の権利をもつ》。
補足的なメモ(VI)。・・・仮に、私の感情の表現が抒情だとするならば、「食べられる女」のマーガレット・アトウッドは、《わたしは頭がぼんやりしてきた。エインズリーがまちがっているのはわかっている。でも話は実に論理的にきこえる。自分のすぐれた判断がうちまかされ、説得されてしまわないうちに、床についたほうがよさそうだ》と書き、中ほどでは《マリアンはコインランドリーに近い駅で地下鉄を降りた。通りに向かい合って、二つの映画館がすぐ近くにある。・・・》と書く。さうして最後には、《わたしは部屋を掃除している。清掃に立ち向かう勇気を奮い起すのに二日かかったけれど、とうとう始めた》とある。つまり、これを人称の変化とだけ云ふことはできないだらう。抒情の伝統と叙事の伝統。この国の伝統から遠く離れて、例へば、野間宏は「暗い絵」や「青年の環」でなにを描いたのだらうか。アトウッドも野間宏の長篇も、その後からフェミニズムが擡頭してくる。
補足的なメモ(VII)。・・・おそらく、また別の見方を感じる。昭和のはじめの時代と戦後の朝鮮戦争あたりまでの時代の文学を、今度は時代と云ふ装置のなかに置いてみること。それは時代の背景ではない。なにもない地平に僕の父や母たちの青春にあつてなにを如何に読んだのだらうか。この空白の年に「細雪」を彼らが読んでゐたとは思ふことができないのである。或いは中也や太郎や賢治を読んでゐたとも想像できない。僕が子どもだつた頃の蔵書には詩集は一冊もみつからなかつた。勿論、戦後に生き残つた本は僅かだつた筈であるが。父は戦争の時代の話を僅かに語つたけれど戦闘の話はしなかつた。母は自らの青春を一度も語らない。
空想的社会主義者のシナリオ。・・・電車やバスに乗ると、僕の若かつた頃とは違つてゐるのは「優先席」の存在である。その呼び名も変化した。それを辿つて見れば面白いかもしれない。近い未来に若者たちの数が減つてこの国は文明の先をゆく手本となるだらう。戦争へ行くのも兵士たちの高齢化によつて、進駐も戦闘も新しい手本を生み出す筈である。新しい軍事国家が誕生する。兵卒の高齢化。武器は軽さを重んじて竹槍である。・・・さうして車内の「優先席」も若者たちのための席にその意味は変化するだらう。
老人は葉山の海を回顧する。・・・僕はこの真夏の盛りに幾つかの本を拾い読みした。さうして、幾冊もの本のなかに共通して現れたのはジャコメッティであり、別の分野のものからは寺田透が出現したのだつた。ジャコメッティは瑞西の彫刻家である。画家でもある。《大変親交が深かった。私たちの間には、常に暗黙の了解というものがあって、心からのふれ合いができた》(バルテュス)。《古典主義の反対に立って、ジャコメッティは彫像たちに、部分のない、想像上の空間を回復した。一気に相対性をうけいれて、絶対を発見したのだ》(サルトル)。ジャコメッティの生涯は絶対の探求のそれであつた。(1901年~1966年)。さうして、此処に一枚の写真がある。見開きの頁の左側には動きのあるレイモン・クノーのベタ。右側の一枚が1958年のパリのカフェでの、指のあいだに煙草を挟んでゐるジャコメッティ。写真家はロベール・ドアノーである。彼は此方を見てゐる。さらには中京の母より教へて戴いた加藤周一の文。それは「稱心獨語」(1972年)のなかにある。僕はすでに此処に収録された幾つかを読んでゐたけれど、加藤のこの美しい本にあらためて満足した。装丁は渡辺一夫である。
高齢だから老人なのではない。・・・昨夜、テレビでベートーヴェンの「第九」の第4楽章を見て、横になつて聴いてゐた。それは昨年の12月の録画であつて、建礼門院殿が「転寝」と称して出かけられたコンサートであるだらう。その数日前にも僕はフルトヴェングラーで「第九」を聴いたばかりだつた。12月に僕は、恒例と称して「第九」を聴くことを好まないが、夏の季節には自分の活力になるやうな気がするのである。暫くネット接続が不良で小さな本の山の一つを整理してゐた。そこにあつた2冊の小さな本。どちらも忘れてゐる。(凡そ30年も過ぎると人間の記憶は、殊に読書などの経験は記憶の片隅からも消へ去るやうである。)その2冊は、岩波新書の(黄版)1冊と(青版)1冊である。「自伝の文学」(中川久定)と「孤独の対話」(山根銀二)。そして後者が耳の悪くなつたベートーヴンの遺された「会話帖」からの考察である。《第九交響曲はこの年にも第一楽章から順を追って纏めあげられていった。ベートーヴェンの作曲の仕方は、スケッチのときには必ずしも順を追ってゆくわけでなく、かなり前後入りみだれてすすめられるが、いよいよ纏める段になると第一楽章からとりかかり、順を追って進んでゆく》(山根銀二)。つまり、この年とは1823年であつて、これを作曲年としてゐる。
8月の半ばだから敗戦のことを考へるのではない。・・・偶々、伊藤整のことが気になりだして、十代の頃には彼の熱心な読者だつたことを思ひ出して、全集とその年譜を眺めながら、しかし、あの有名な「鳴海仙吉」は読んでゐなかつたのではないか、と云ふことに至つたのだ。何故だらうか。当時、彼の作品は新潮文庫と角川文庫で読むことができた筈である。さうしていま、「鳴海仙吉」は岩波文庫にある。切欠はここ数日の読書の寺田透「伊藤整論」にある。「鳴海仙吉」は敗戦の翌年から書き始められてゐる。単行本は昭和25年である。つまり、1950年。そして、「チャタレイ夫人の恋人」の刊行。
戦後の年表を睨んで1950年までの文学作品を列挙してみる。「踊子」「灰色の月」「暗い絵」「白痴」「桜島」(1946年)。「深夜の酒宴」「斜陽」「蝮のすゑ」(1947年)。「崩壊感覚」「俘虜記」「人間失格」「永遠なる序章」(1948年)。「私の東京地図」「仮面の告白」「山の音」(1949年)。「武蔵野夫人」「鳴海仙吉」「異形の者」(1950年)。これらの選択は私見が絡む。故にこれをその代表だとは云はない。・・・さうして、「新古今集」の時代のことを考へてゐた。「平家物語」の時代である。すると戦後の文学の活況はその時代によつて生れたのではない、と思つたのである。おそらくは昭和のはじめの時代と関連してゐるのだ。「玄鶴山房」「施療室にて」「歯車」(1927年)。「キャラメル工場から」「卍」「真知子」「放浪記」(1928年)。「蟹工船」「太陽のない街」「浅草紅団」(1929年)。
伊藤整「鳴海仙吉」を寺田のヒントで読む。つまり、それは笑いでありユーモアであるのだ。《鳴海仙吉は自殺もせず、革命もしませんでした。将来もしないでしょう。彼は飴色縁の眼鏡をかけ、鼠色のダブルの洋服を着、革鞄を持って、智慧あり顔に街を歩いています。君のように、また作者のように。》
或る日の散歩。神保町で、鳥渡気になつた著作集があつた。この研究者の名前も知らなかつたので僕はそれを読むことも出来なかつたくらいである。出版社の名前もはじめてである。いまでは後悔してゐるのだが、帰宅してから書庫の「日本古典文学大系」(岩波書店)と「日本古典集成」(新潮社)を見て知つたのである。僕は若い頃から「万葉集」の抒情の意味が感覚的によく理解できなかつた。一般の読者のための案内書のほとんどに不満であつたし、無知でもあつた。《田兒の浦ゆうち出でて見れば眞白にそ不盡の高嶺に雪は降りける》なども面白くなかつた。《共同体的な歌謡と袂を分ち、個性詩への志向のうちに抒情詩の生誕、そして発達、完成をみたのが、他ならぬ万葉集の歌々である。》《日本の文学は万葉集の成立において、早くも抒情詩の完成をきわやかに遂げたということができる。西欧古典の叙事詩や劇詩の代りに、いち早い抒情詩のかたちで、東洋の中国詩よりもある意味でいっそう純粋なすがたで、開花をみた万葉集は、たしかに世界の文学の中でも類い稀な一大詞華集である。》(青木生子)
深夜のテレビで諾威映画「ソフィーの世界」を見る。懐かしい諾威語と(映画の中では)夏至祭の笑ひ。この夏の半ばの愉しいユーモア。さうして遅く起きた朝にはこの国の愚かさの代表のことがニュースになつてゐた。天候も変化の兆し。プラトンの洞窟のなかのやうな天気。宝石のやうな朝ではなかつた。パソコン机の下からはブルクハルトが出て来た。《ダンテこそ、軽蔑の表現において、世界のあらゆる詩人を凌駕する者であり、たとえば詐欺師どもを描いた地獄のあの大風俗画だけをもってしても、巨大な喜劇の最高の名人と呼ばなければならない。》ブルクハルトは、その註でダンテに比較できるものはアリストファネスだけだと云つてゐる。
空想的社会主義者のシナリオ(II)。・・・マルクスがマルキシストではないのは当然である。が、軍国主義者ではなく平和主義者だから好しとするのは軽薄であるだらう。この国にも他の国にも平和主義者である軍国主義者は幾らでもゐてそれは論理矛盾にはならない。軍国主義者である平和主義者も多い筈である。前者と後者が同じなのか違つてゐるのかの議論は困難を極める。Anamne さんのブログでの本の紹介にあつた「モダンガール」論に昨夜の僕の思考は停止してしまつた。さうして眠りのなかでその考へが誰のものだつたのか老人の考へだつたのか酩酊したやうに見境がつかなくて困つたのだつた。漸く今朝になつてAnamne さんのことに至つたのである。さらに連想してゐたのは、先日読んでゐたニコルソン・ベイカーの小説「フェルマータ」である。fermata は伊太利亜語で、音楽用語。それは「停止」を意味する。これから先は想像して下さい。
「万葉集」についての若き日の違和感のやうなものについて少し触れました。そこにあつたものは抒情でした。伊藤整は詩集「雪明りの路」から出発してゐる。この詩集はいまでは簡単に読むことができないにしても、この辺りのことは「若い詩人の肖像」や「青春」や「鳴海仙吉」を読めば済むかもしれない。彼は、中京の母が指摘されてゐることを繰り返し描く。これを伊藤整の限界とみることも可能である。しかし、僕には抒情の一つの限界ともみへるのです。彼はその後を如何に描いたのか。おそらく選択の道は当時二つあつたと思ふのです。プロレタリア文学とモダニズムの文学。小説のなかには小林多喜二のことも描かれてゐますが、彼はジョイスやロレンスの方を選択した。さうしてモダニズムの文学はすぐにも破綻する。つまりはどちらの選択をしたとしても破綻したのでした。後半の伊藤の「氾濫」や「変容」はおくとして、「日本文壇史」の方へ、が象徴的な気がします。僕は、先に、青木生子の「万葉集」解説の一部分を引用しました。その時の僕はモダニズム的に理解し読んでゐました。これは青木生子の限界ではなく、僕の読み方の限界でもあります。しかし、僕には、好く理解できるやうな気がしました。端折りますが、伊藤整も結局は抒情を切り離すことはできなかつたと思ひます。伊藤整も加藤周一も批評において抒情の危さを何処かに感じてはゐたと思ふのです。「小説の方法」や「芸術は何のためにあるか」のやうな評論集とともに伊藤整は、「女性に関する十二章」や「伊藤整氏の生活と意見」を書かなければならなかつたのではないか。さうして「日本文壇史」の方へ。
老人だから笑ふのではない。・・・「笑ひ」のアンソロジーを考へる。例へば柳田國男、ベルグソン、ダンテ、ラブレー、大西巨人。その果てにあるものは悲しみ。故に老人は笑ひを好むのだらうか。《私たちは目隠しをしたまま現在を横切る。私たちにできるのはせいぜい、自分がなにを経験しつつあるのかを予感し、推察することくらいだ。のちになって目隠しが解かれ、過去を検証するときになってやっと、私たちは自分がなにを経験したのかに気づき、その意味を理解するにすぎない。》(ミラン・クンデラ)果たして追込まれたのは笑ひだつたらうか。
補足的なメモ。・・・「悪の華」も「ボヴァリー夫人」も、一つの時代にあつた。彼女は、最後にも笑つたのだつた。《無気味に、狂いじみて、絶望的に笑った。》(「ボヴァリー夫人」) コメントにも書きましたが、映画と原作は困難な関係にあります。映画としては不出来ではあつても、これは僕の空想ではありますけれど、哲学の歴史の断片を寄せ集めてみても面白くはない筈です。しかし、あの最後の笑ひのなかに、認識の始まりが隠れてゐるとも思へてくるのです。フーコーを捩つて、知の考古学と云つても好い。深い悲しみのやうな・・・。
補足的なメモ(II)。・・・逆説的ではあるが、抒情から出発してその陥穽に陥らなかつた批評家は二人ゐる。小林秀雄と保田與重郎である。《ヘルマンとドロテア、あんな他愛のない恋愛を書いてゐるでせう。何にもエッケルマンの対話には出てゐない。》(太宰治) これは批評の問題ではなく作家の側のことを太宰は云つてゐるのである。僕は、この酩酊した太宰の発言から高橋和巳の小説の抒情を想起する。
補足的なメモ(III)。・・・僕は、興味を持つて読んだ英米の二人の作家がゐる。ダナ・タートとジャネット・ウィンターソンで、ジャネット・ウィンターソンとニコルソン・ベイカーの本を訳してゐるのが岸本佐知子。僕には、訳者で購入する二人の翻訳家がゐる。浅羽莢子と岸本佐知子である。この亜米利加と英吉利の女流作家たちは寡作な作家である。浅羽莢子の重要な仕事はセイヤーズの翻訳だらう。岸本佐知子は、僕などよりも若いからこれからかもしれない。と、詰まらぬ空想をしたのは、「ボヴァリー夫人」の翻訳と「第二の性」の翻訳の差異である。おそらく、差異や落差なんてものはないのだらう。30年も昔に読んだ二つの本はそのまま今日も読むことはできるだらうか。そのことは「ユリシーズ」の翻訳の変遷とは異なるだらう。
補足的なメモ(IV)。・・・勿論、文学史が小説の歴史である訳ではない。その中心に小説を置くことは今日では常識である。さうして歴史のなかで「文学の常識」を再び考へることは悪くはないだらう。但し、戦後のこの国の文学の中心にあつたのは小説で、すでにそれは今日的な中心にないとしても。僕はもはや辛うじて小説の読者に過ぎないのである。《夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも》から「堕落論」や「如是我聞」や「可能性の文学」までを見ながらの僕の空想は、戦後の文学が、殊に戦後派と呼ばれる人たちの新しさにあつても昭和のはじめの先の図式と関連するのではないか、と。だから、以前「文学的立場」の同人たちは昭和十年代の聞き書きをしたのではなかつたか。
補足的なメモ(V)。・・・義父より梨が届いて最初の一つを朝食に食べる。八月の半ばが過ぎて急速に夏が終焉するのがこの国の特色である。しかし、この暑さはまだ終らないだらう。故に、僕は女ともだちへ進言するのですよ。お出掛けは涼しい季節になつてからでも遅くはない。ホッファーから古代アテネの時間への旅をお薦めしますよ。エウリピデスからの引用。《富める者に特権をあたえず、貧しき者も平等の権利をもつ》。
補足的なメモ(VI)。・・・仮に、私の感情の表現が抒情だとするならば、「食べられる女」のマーガレット・アトウッドは、《わたしは頭がぼんやりしてきた。エインズリーがまちがっているのはわかっている。でも話は実に論理的にきこえる。自分のすぐれた判断がうちまかされ、説得されてしまわないうちに、床についたほうがよさそうだ》と書き、中ほどでは《マリアンはコインランドリーに近い駅で地下鉄を降りた。通りに向かい合って、二つの映画館がすぐ近くにある。・・・》と書く。さうして最後には、《わたしは部屋を掃除している。清掃に立ち向かう勇気を奮い起すのに二日かかったけれど、とうとう始めた》とある。つまり、これを人称の変化とだけ云ふことはできないだらう。抒情の伝統と叙事の伝統。この国の伝統から遠く離れて、例へば、野間宏は「暗い絵」や「青年の環」でなにを描いたのだらうか。アトウッドも野間宏の長篇も、その後からフェミニズムが擡頭してくる。
補足的なメモ(VII)。・・・おそらく、また別の見方を感じる。昭和のはじめの時代と戦後の朝鮮戦争あたりまでの時代の文学を、今度は時代と云ふ装置のなかに置いてみること。それは時代の背景ではない。なにもない地平に僕の父や母たちの青春にあつてなにを如何に読んだのだらうか。この空白の年に「細雪」を彼らが読んでゐたとは思ふことができないのである。或いは中也や太郎や賢治を読んでゐたとも想像できない。僕が子どもだつた頃の蔵書には詩集は一冊もみつからなかつた。勿論、戦後に生き残つた本は僅かだつた筈であるが。父は戦争の時代の話を僅かに語つたけれど戦闘の話はしなかつた。母は自らの青春を一度も語らない。