「航海日誌」 遠い記憶と近い記憶の間で
僕たちの子どもの頃には、夏休みの自由研究の代表として昆虫採集と植物採集があつた。なぜそれが自由研究なのか今になつてみればよく判らないのだが、まるで学校の学習や行事には無関心だつた僕にもその事だけには夢中になつた。何処の家でも空の菓子箱は棚の上などに保存されてゐたのだらう。近所の文具店にはそのためのキットが売られてゐて、綺麗な色のついた液体の壜が数本と注射器が最低のセットになつてゐた。それも今になるとよく判らないことである。勿論、小学生にはダーウィンの名前も知らなかつた。そして不思議なのはファーブルの名前と自分たちのやつてゐることが連関することもなかつた。教師もまた夏休みの前後にはなにの説明もしてはくれなかつた。
・・・
それは残酷な行為だつたらうか。胴に糸を巻きつけて蜻蛉を空に放つこと。同じやうにして尻切れ蜻蛉を放つこと。ダーウィンの「航海日誌」は牧歌的なものではない。読んでゐると幾度も腹を割てみたり潰したりしてゐる。「昆虫記」の方にはその記憶がないのだが、いま手元にそれがないので確かめることができない。
《プラタの河口から若干マイル沖で数回と、また北パタゴニアの海岸から離れた所で、艦が昆虫に囲まれたことがあった。》(ダーウィン)
僕の手元にある「航海記」の翻訳は癖があるやうで気に入らないのだが、ダーウィンの本はインターネットで殆ど簡単に読めるのだが、いまは面倒だから文庫本に拠る。(故に、此れからダーウィン論を展開することはありませんよ。)軍艦ビーグル号が無数の蝶に蔽はれるところである。もし僕が小学生の夏休みにこの本のこの頁を読んだならば完全に狂気のなかで陶酔してゐただらう。いままでにも蝗の大群が空を蔽ひ尽くす話のニュースなどは見たことがあつた。海上でのこの話と軍艦のイメージの重なりは、その興奮はいまの老人には残念ながらないけれど。
・・・
さうして19世紀の軍艦と20世紀の軍艦が現在の僕の脳裡では結合する。《「茉莉」と読まれた軍艦》のこと。
《魁に文明を将来した写真館が、風景の中で古ぼけてゐる。》(安西冬衛)
あの有名なてふてふの一行詩は「春」と題されてゐる。ビーグル号が英吉利の軍港を出航したのは1831年の12月であつた。大西洋を南下して南米へと、赤道を越へて冬から夏へ。その赤い線は想像上のものである。(The equator is an imaginary line round the Earth, that divides it equally into its northern and southern halves)
・・・
一匹の蝶が国境を越へてゆく線もまた想像上のもの。数字だつて同じやうなものだらうか。人間はこの空想の欲望によつて生きてそれらを満たすために数字上の戦争をはじめるのだ。現実へとそれが行き着くための線をなにと呼ぶべきなのだらうか。
《みんなは、少しでも手頃な使いよいシャベルや鶴嘴をうまく手に入れるために、暗い小屋のなかに殺到した。》(フランクル)
これも暗黒への、狂気を越へる線を示してゐるのだらう。アウシュビッツのなかのさらなる狂気。・・・スウィフトは、内なる狂気に悩まされてゐた。《ほとんどの生涯を悩ましつづけたのは、たえず襲ってくる船酔いにも似た眩暈と難聴であった》(中野好夫)彼はその時、23歳だつた。ビーグル号のダーウィンも23歳だつた。中野好夫は、フロイトが発見した無意識がより人々を幸福にしたとは云へない、と書いてゐた。動物の腹を裂いてそのなかになにを見出すのか。人間の歴史とはこの「航海記」のやうなものだらうか。フランクルが描いてゐるのはアウシュビッツの狂気ではなく、人間に内在したものだつたらう。
・・・
フロイトが生れたのはそれから25年後である。
《老いらくの恋がいいわ、ハハハ、八十位になってした方がニュース・ヴァリュがあるでしょ。けれど三日、同じ天気はないというじゃありませんか。》(幸田文)
この時、幸田文は45歳だつた。インタヴュアーは、彼女のことを陽気なお婆ちやんだつた、と書いてゐる。彼の名前は斎藤信也。引用した本の書名は「人物天気図」と云ふ。朝日の夕刊がはじまつたのが1950年。「人物天気図」が連載されたのがその頃である。新版を手元において僕は小学時代の懐かしい「人名事典」のやうにして愉しんでゐる。
・・・
面白いので少し横道へ。(巌本真理)《生意気な女である、と申し上げたら彼女の御両親や友人たちは、見当違いもはなはだしいと嘆くだろう。》(杉村春子)《彼女、美人じゃない。》(南原繁)《甘いといえばあまいだろうし、古くさいといえば古くさいのが、彼の身上であろう。》(笠置シヅ子)《戦後日本に二つの怪物が横行している。共産主義ならびにブギ・ウギすなわちこれ。》(渡辺一夫)《ちょいとしたスタイリストとお見受けする。むろん、九割八分がたの都会人だけにそれをナマで出すような野暮じゃない。同時に、阿呆になれるほどの勇気はない。秀才というものは困ったもんである。》(三島由紀夫)《華族でも何でもない平岡公威が、初等科から高等科までの十数年を学習院で送ったという経歴。これが三島由紀夫の成長を助け、また阻んでいる。》(安川加寿子)《苦渋がなさ過ぎるのである。》(原節子)《五尺三寸、十四貫。》
《いや、われわれは夢を軽視しません。少なくとも、多数の人間におこる定型的な夢は、軽視しないのです。》(フロイト)
フロイトは、オイディプスの話のなかで、多くの人が見たかもしれない自分が母親と寝る夢のことを語つて、最後にソフォクレスの「悲劇」の嫌悪を引き起こさない不思議をも続けて書いてゐる。デカルトとオイラーはその球体を夢見て、ダーウィンはそれを一周したのだつた。ヴェルヌはその少し前に生れてゐる。彼が向かつたのは月と地底の旅。地底の旅の入り口はアイスランドである。神話の夢は地下を貫通してどこへゆくのだらうか。
・・・
《Í upphafi skapaði Guð himin og jörð. Jörðin var þá auð og tóm, og myrkur grúfði yfir djúpinu, og andi Guðs sveif yfir vötnunum.》呪いのやうに神話の国のことばで朗読して見る。
《過去はすべてのことをわたしに、わたしのためにしてくれた。》(ユードラ・ウェルティ)
僕は、先日、偶然立寄つた書店で、最初の一巻だけで買いそびれてずつと探してゐた「第二の性」の続きの一冊を買ふことができたのだつた。新しい訳の新版は活字も大きく読みやすいのである。但し、入手できたのは二巻目の上巻だけであつたが。今年の冬は暖冬だと云ふ。都会でも風が強く吹く日がすくないから確かにさうなのだらう。初雪の日には部屋から出なかつたので気づかなかつた。後の天気予報で凍雨と云ふことばを知つて、或る人がそのことを教へてくれたのだつた。ボーヴォワールのこの巻は性愛がテーマであるが、フロイトの古い全集の一冊を出してきて読んでゐるところもリビドーの話である。フロイトの発見はすべて性愛に無関係ではないのだらう。
・・・
ユードラ・ウェルティもカーソン・マッカラーズも南部の作家である。それにフォークナーを加へてδのやうな構図を考へて見ること。
《人間は家の中にいる時間の、まず三分の二は、つっ立ってる。だから、家の継ぎ目も合わせ目も上下にできてる。重味が上下にかかるからだ。》(フォークナー)
おそらく南部は、三人の作家が共通して持つてゐた或る衝動に動かされるやうな場所なのだらう。経験のない僕にはそれを本当に理解するこはできないだらうが、幾人もの批評家がさう書いてもゐたのだから、さうした過去を持つ南部とは、そもそも戦争だつたのか大地だつたのか群集だつたのか。
・・・
南部の町のリビドーなんてものがあるだらうか。抑圧。(very strong control of feelings or desires that you are ashamed of, until you feel as if you do not have them anymore )
《この動物は海浜に近い裸地の砂上に棲んでいる。その斑点のある体色、白と、黄を帯びた紅と汚らしい青との斑点を具えた褐色のうろこは、周囲のものとの区別が困難である。驚かすと脚をひろげ、体をひらたくし、眼を閉じ、死んだまねをして、人に発見されることをまぬかれようとする。》(ダーウィン)
退行。死の方へ遁れることも人間の生き方であるのかもしれない。The Optimist's Daughter の主人公は、仕事から離れて無為の時間のなかにゐる。忙しい時間へ遁れてゐたのは家族の死からでもあつたらう。このユードラ・ウェルティの小説は僕には鳥渡読みにくいなあ。蜥蜴が自らの尻尾を切り棄ててゆくやうに書かれてゐるからだらうか。
・・・
就寝前に読んでゐるのは、「芭蕉の門人」である。芭蕉とその時代を愉しむには便利な本である。僕のやうな素人には、「去来抄」を読むにも理解できないことが多い。さうして考へたのは、ユードラ・ウェルティの主人公が考へてゐたことと病床の芭蕉のもとへいち早く駆けつけた去来のことの連想だつた。
《機関を踏み破らばしるべし。》(去来)
フロイトの「自伝」には個人的に興味あることがほとんど書いてゐない。僕の持つてゐて、高校生の頃から読んでゐたのは、日本教文社版の全集だつたから書簡集も知らない。その頃、心理学の教授の部屋へ遊びに行つて薦められたのはアーネスト・ジョーンズの「伝記」だつたが高価で買ふ気になれなかつた。いまでは定番の本があるのだらうがそれも知らない。・・・中野重治が素人として読んだのはレーニン。寺田透はドストエフスキー。大江健三郎はフォークナー。無論、不勉強な僕はかやうな真似もできない。
・・・
フロイトも或る本のなかで、《無味乾燥なものである科学についての空想》と書いてゐる。
《すでに見てきたように全体とは現実の総体であり、運動する自然であり、また社会と自然を貫いて動く歴史の統一的な総体であると言ってよいでしょう。そしてその現実の総体の中心にかたく結合しているものは人間の慾望と労働であることはいうまでもないことです。》(野間宏)
此れはまたアウシュビッツの方へも戻るやうな気配がする。野間宏の「サルトル論」や「青年の環」がフロイトに繋がるのか判らない。「暗い絵」なら、「真空地帯」ならばフロイトの方へ近づくだらうか。労働とはなにだらうか。
・・・
「今昔物語」のなかの、産女、南山科に行き、鬼に値ひて逃ぐる語、の章。此れなどは「ヒステリー研究」に近くはないだらうか。出産は忌であつて、産屋は村はずれの野原や山のなかや浜辺に設けられたと註にある。この辺は少し説明が要るけれど、文庫で容易に入手できるのでお読みくださいな。
《而る間、指せる夫無くして懐妊しぬ。》(「宇治拾遺物語」)
「夜と霧」の意味はその解説に詳しい。或る心理学者の強制収容所の体験は悲惨なものであるが、その彼の見てゐる別の面を如何に考へるべきなのだらうか。《丁度頂きが夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれののうっとりと輝いている顔を誰かが見たとしたら》、おそらくフランクルが生き延びるためには、或いは僕たちみなが生き延びるためには、此処に必要なものが隠されてゐるのかもしれない。
・・・
縄タクアンの味から、少年時代を通して戦争まで繋がる梅崎春生の美しい小説。かう書くと鳥渡誤解されるだらうか。
《「ぼくは、いい世の中を描きたいんで・・・。見る人を明るく朗らかにさせるような・・・。」》(小津安二郎)
この小津の時代は昭和24、5年のこと。一つのキーワードで、斎藤信也は会話を進めてゐる。芸術家も音楽家も女優も学者も。大抵は、否、と答へてゐる。登場する人物の半分は政治に係るが、彼らには訊かない。《もっと正直にならなけりゃだめですな、何か舞台で踊ってるような感じだ。民衆とアグラをかいて語ってない。むかしの極右もそうだった。》その辰野隆が好きだつたのは天皇である。
・・・
斎藤の得意としたキーワードは、共産党。此れもまた一つの時代だつた。この国の戦後の、庶民の生活の彼方にあつたものはなにか。沢庵だらうか。小津の映画に出てくるのは銀座の鮨だつたか。僕にはコカ・コーラの看板が記憶にあるのだが、記憶違いだらうか。
《敬愛する盟友よ!・・・》(モーツァルト)
アウシュビッツの囚人たちのザルツブルグとモーツァルトの時代の美しさにおいては変らなかつただらう。しかし、上記のそれは借金返済の猶予のための手紙の一部なのだ。彼の短命は自ずと死の方へと歩きはじめる。彼らはその強制収容所のなかで、その過酷な労働のなかで、移動する列車のなかで、一時の生を持続を希求してゐただらうか。病は夜の終りのやうに最後を迎へるだらう。「レクィエム」から聴くこと。
・・・
昨年のモーツァルトの喧騒から今年はグリークの静穏へ移るのだらうか。
《「戦争つて、要するに軍需屋を儲けさせるだけのことですからね。」》(野上弥生子)
野上の長篇小説「迷路」のなかにある文章。さらに続けば酒屋にもなる。資本主義の戦争ならば、今では子どもだつて判るだらう。阿呆な構図から抜け出せないのもまたこの資本の原理だからだらう。資本の大国もこの国も修正することはグレゴリオ暦の未来と同じやうに困難だらうなあ。この小説は時間を争つて読むやうな作品ではない。完全に忘れてゐた話のなかに、ぽつぽつとザルツブルグのあの美しさと同じものを発見する。
・・・
財閥が悪だつたとしても、近隣の酒屋さんは当時如何なる状態を呈してゐたのだらうか。全集では同じ頁にある会話の一部を引用します。
《「店も戦争ではいい訳でせうがねえ。出征だ、陥落だ、万歳だ、といふたびに酒だから。」》(野上弥生子)
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それは残酷な行為だつたらうか。胴に糸を巻きつけて蜻蛉を空に放つこと。同じやうにして尻切れ蜻蛉を放つこと。ダーウィンの「航海日誌」は牧歌的なものではない。読んでゐると幾度も腹を割てみたり潰したりしてゐる。「昆虫記」の方にはその記憶がないのだが、いま手元にそれがないので確かめることができない。
《プラタの河口から若干マイル沖で数回と、また北パタゴニアの海岸から離れた所で、艦が昆虫に囲まれたことがあった。》(ダーウィン)
僕の手元にある「航海記」の翻訳は癖があるやうで気に入らないのだが、ダーウィンの本はインターネットで殆ど簡単に読めるのだが、いまは面倒だから文庫本に拠る。(故に、此れからダーウィン論を展開することはありませんよ。)軍艦ビーグル号が無数の蝶に蔽はれるところである。もし僕が小学生の夏休みにこの本のこの頁を読んだならば完全に狂気のなかで陶酔してゐただらう。いままでにも蝗の大群が空を蔽ひ尽くす話のニュースなどは見たことがあつた。海上でのこの話と軍艦のイメージの重なりは、その興奮はいまの老人には残念ながらないけれど。
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さうして19世紀の軍艦と20世紀の軍艦が現在の僕の脳裡では結合する。《「茉莉」と読まれた軍艦》のこと。
《魁に文明を将来した写真館が、風景の中で古ぼけてゐる。》(安西冬衛)
あの有名なてふてふの一行詩は「春」と題されてゐる。ビーグル号が英吉利の軍港を出航したのは1831年の12月であつた。大西洋を南下して南米へと、赤道を越へて冬から夏へ。その赤い線は想像上のものである。(The equator is an imaginary line round the Earth, that divides it equally into its northern and southern halves)
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一匹の蝶が国境を越へてゆく線もまた想像上のもの。数字だつて同じやうなものだらうか。人間はこの空想の欲望によつて生きてそれらを満たすために数字上の戦争をはじめるのだ。現実へとそれが行き着くための線をなにと呼ぶべきなのだらうか。
《みんなは、少しでも手頃な使いよいシャベルや鶴嘴をうまく手に入れるために、暗い小屋のなかに殺到した。》(フランクル)
これも暗黒への、狂気を越へる線を示してゐるのだらう。アウシュビッツのなかのさらなる狂気。・・・スウィフトは、内なる狂気に悩まされてゐた。《ほとんどの生涯を悩ましつづけたのは、たえず襲ってくる船酔いにも似た眩暈と難聴であった》(中野好夫)彼はその時、23歳だつた。ビーグル号のダーウィンも23歳だつた。中野好夫は、フロイトが発見した無意識がより人々を幸福にしたとは云へない、と書いてゐた。動物の腹を裂いてそのなかになにを見出すのか。人間の歴史とはこの「航海記」のやうなものだらうか。フランクルが描いてゐるのはアウシュビッツの狂気ではなく、人間に内在したものだつたらう。
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フロイトが生れたのはそれから25年後である。
《老いらくの恋がいいわ、ハハハ、八十位になってした方がニュース・ヴァリュがあるでしょ。けれど三日、同じ天気はないというじゃありませんか。》(幸田文)
この時、幸田文は45歳だつた。インタヴュアーは、彼女のことを陽気なお婆ちやんだつた、と書いてゐる。彼の名前は斎藤信也。引用した本の書名は「人物天気図」と云ふ。朝日の夕刊がはじまつたのが1950年。「人物天気図」が連載されたのがその頃である。新版を手元において僕は小学時代の懐かしい「人名事典」のやうにして愉しんでゐる。
・・・
面白いので少し横道へ。(巌本真理)《生意気な女である、と申し上げたら彼女の御両親や友人たちは、見当違いもはなはだしいと嘆くだろう。》(杉村春子)《彼女、美人じゃない。》(南原繁)《甘いといえばあまいだろうし、古くさいといえば古くさいのが、彼の身上であろう。》(笠置シヅ子)《戦後日本に二つの怪物が横行している。共産主義ならびにブギ・ウギすなわちこれ。》(渡辺一夫)《ちょいとしたスタイリストとお見受けする。むろん、九割八分がたの都会人だけにそれをナマで出すような野暮じゃない。同時に、阿呆になれるほどの勇気はない。秀才というものは困ったもんである。》(三島由紀夫)《華族でも何でもない平岡公威が、初等科から高等科までの十数年を学習院で送ったという経歴。これが三島由紀夫の成長を助け、また阻んでいる。》(安川加寿子)《苦渋がなさ過ぎるのである。》(原節子)《五尺三寸、十四貫。》
《いや、われわれは夢を軽視しません。少なくとも、多数の人間におこる定型的な夢は、軽視しないのです。》(フロイト)
フロイトは、オイディプスの話のなかで、多くの人が見たかもしれない自分が母親と寝る夢のことを語つて、最後にソフォクレスの「悲劇」の嫌悪を引き起こさない不思議をも続けて書いてゐる。デカルトとオイラーはその球体を夢見て、ダーウィンはそれを一周したのだつた。ヴェルヌはその少し前に生れてゐる。彼が向かつたのは月と地底の旅。地底の旅の入り口はアイスランドである。神話の夢は地下を貫通してどこへゆくのだらうか。
・・・
《Í upphafi skapaði Guð himin og jörð. Jörðin var þá auð og tóm, og myrkur grúfði yfir djúpinu, og andi Guðs sveif yfir vötnunum.》呪いのやうに神話の国のことばで朗読して見る。
《過去はすべてのことをわたしに、わたしのためにしてくれた。》(ユードラ・ウェルティ)
僕は、先日、偶然立寄つた書店で、最初の一巻だけで買いそびれてずつと探してゐた「第二の性」の続きの一冊を買ふことができたのだつた。新しい訳の新版は活字も大きく読みやすいのである。但し、入手できたのは二巻目の上巻だけであつたが。今年の冬は暖冬だと云ふ。都会でも風が強く吹く日がすくないから確かにさうなのだらう。初雪の日には部屋から出なかつたので気づかなかつた。後の天気予報で凍雨と云ふことばを知つて、或る人がそのことを教へてくれたのだつた。ボーヴォワールのこの巻は性愛がテーマであるが、フロイトの古い全集の一冊を出してきて読んでゐるところもリビドーの話である。フロイトの発見はすべて性愛に無関係ではないのだらう。
・・・
ユードラ・ウェルティもカーソン・マッカラーズも南部の作家である。それにフォークナーを加へてδのやうな構図を考へて見ること。
《人間は家の中にいる時間の、まず三分の二は、つっ立ってる。だから、家の継ぎ目も合わせ目も上下にできてる。重味が上下にかかるからだ。》(フォークナー)
おそらく南部は、三人の作家が共通して持つてゐた或る衝動に動かされるやうな場所なのだらう。経験のない僕にはそれを本当に理解するこはできないだらうが、幾人もの批評家がさう書いてもゐたのだから、さうした過去を持つ南部とは、そもそも戦争だつたのか大地だつたのか群集だつたのか。
・・・
南部の町のリビドーなんてものがあるだらうか。抑圧。(very strong control of feelings or desires that you are ashamed of, until you feel as if you do not have them anymore )
《この動物は海浜に近い裸地の砂上に棲んでいる。その斑点のある体色、白と、黄を帯びた紅と汚らしい青との斑点を具えた褐色のうろこは、周囲のものとの区別が困難である。驚かすと脚をひろげ、体をひらたくし、眼を閉じ、死んだまねをして、人に発見されることをまぬかれようとする。》(ダーウィン)
退行。死の方へ遁れることも人間の生き方であるのかもしれない。The Optimist's Daughter の主人公は、仕事から離れて無為の時間のなかにゐる。忙しい時間へ遁れてゐたのは家族の死からでもあつたらう。このユードラ・ウェルティの小説は僕には鳥渡読みにくいなあ。蜥蜴が自らの尻尾を切り棄ててゆくやうに書かれてゐるからだらうか。
・・・
就寝前に読んでゐるのは、「芭蕉の門人」である。芭蕉とその時代を愉しむには便利な本である。僕のやうな素人には、「去来抄」を読むにも理解できないことが多い。さうして考へたのは、ユードラ・ウェルティの主人公が考へてゐたことと病床の芭蕉のもとへいち早く駆けつけた去来のことの連想だつた。
《機関を踏み破らばしるべし。》(去来)
フロイトの「自伝」には個人的に興味あることがほとんど書いてゐない。僕の持つてゐて、高校生の頃から読んでゐたのは、日本教文社版の全集だつたから書簡集も知らない。その頃、心理学の教授の部屋へ遊びに行つて薦められたのはアーネスト・ジョーンズの「伝記」だつたが高価で買ふ気になれなかつた。いまでは定番の本があるのだらうがそれも知らない。・・・中野重治が素人として読んだのはレーニン。寺田透はドストエフスキー。大江健三郎はフォークナー。無論、不勉強な僕はかやうな真似もできない。
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フロイトも或る本のなかで、《無味乾燥なものである科学についての空想》と書いてゐる。
《すでに見てきたように全体とは現実の総体であり、運動する自然であり、また社会と自然を貫いて動く歴史の統一的な総体であると言ってよいでしょう。そしてその現実の総体の中心にかたく結合しているものは人間の慾望と労働であることはいうまでもないことです。》(野間宏)
此れはまたアウシュビッツの方へも戻るやうな気配がする。野間宏の「サルトル論」や「青年の環」がフロイトに繋がるのか判らない。「暗い絵」なら、「真空地帯」ならばフロイトの方へ近づくだらうか。労働とはなにだらうか。
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「今昔物語」のなかの、産女、南山科に行き、鬼に値ひて逃ぐる語、の章。此れなどは「ヒステリー研究」に近くはないだらうか。出産は忌であつて、産屋は村はずれの野原や山のなかや浜辺に設けられたと註にある。この辺は少し説明が要るけれど、文庫で容易に入手できるのでお読みくださいな。
《而る間、指せる夫無くして懐妊しぬ。》(「宇治拾遺物語」)
「夜と霧」の意味はその解説に詳しい。或る心理学者の強制収容所の体験は悲惨なものであるが、その彼の見てゐる別の面を如何に考へるべきなのだらうか。《丁度頂きが夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれののうっとりと輝いている顔を誰かが見たとしたら》、おそらくフランクルが生き延びるためには、或いは僕たちみなが生き延びるためには、此処に必要なものが隠されてゐるのかもしれない。
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縄タクアンの味から、少年時代を通して戦争まで繋がる梅崎春生の美しい小説。かう書くと鳥渡誤解されるだらうか。
《「ぼくは、いい世の中を描きたいんで・・・。見る人を明るく朗らかにさせるような・・・。」》(小津安二郎)
この小津の時代は昭和24、5年のこと。一つのキーワードで、斎藤信也は会話を進めてゐる。芸術家も音楽家も女優も学者も。大抵は、否、と答へてゐる。登場する人物の半分は政治に係るが、彼らには訊かない。《もっと正直にならなけりゃだめですな、何か舞台で踊ってるような感じだ。民衆とアグラをかいて語ってない。むかしの極右もそうだった。》その辰野隆が好きだつたのは天皇である。
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斎藤の得意としたキーワードは、共産党。此れもまた一つの時代だつた。この国の戦後の、庶民の生活の彼方にあつたものはなにか。沢庵だらうか。小津の映画に出てくるのは銀座の鮨だつたか。僕にはコカ・コーラの看板が記憶にあるのだが、記憶違いだらうか。
《敬愛する盟友よ!・・・》(モーツァルト)
アウシュビッツの囚人たちのザルツブルグとモーツァルトの時代の美しさにおいては変らなかつただらう。しかし、上記のそれは借金返済の猶予のための手紙の一部なのだ。彼の短命は自ずと死の方へと歩きはじめる。彼らはその強制収容所のなかで、その過酷な労働のなかで、移動する列車のなかで、一時の生を持続を希求してゐただらうか。病は夜の終りのやうに最後を迎へるだらう。「レクィエム」から聴くこと。
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昨年のモーツァルトの喧騒から今年はグリークの静穏へ移るのだらうか。
《「戦争つて、要するに軍需屋を儲けさせるだけのことですからね。」》(野上弥生子)
野上の長篇小説「迷路」のなかにある文章。さらに続けば酒屋にもなる。資本主義の戦争ならば、今では子どもだつて判るだらう。阿呆な構図から抜け出せないのもまたこの資本の原理だからだらう。資本の大国もこの国も修正することはグレゴリオ暦の未来と同じやうに困難だらうなあ。この小説は時間を争つて読むやうな作品ではない。完全に忘れてゐた話のなかに、ぽつぽつとザルツブルグのあの美しさと同じものを発見する。
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財閥が悪だつたとしても、近隣の酒屋さんは当時如何なる状態を呈してゐたのだらうか。全集では同じ頁にある会話の一部を引用します。
《「店も戦争ではいい訳でせうがねえ。出征だ、陥落だ、万歳だ、といふたびに酒だから。」》(野上弥生子)
この記事へのコメント
今日も、無駄に過ごしてしもうた。
そちらは、快調のご様子なによりです。
《スタンダールを何べんも読みました。情熱的で、底に冷たい理智があって、・・・。》(三岸節子)
むなしく 老いに至りぬ
岡野 弘彦
良く眠り、よく食べ、動き回り、幸せです。
体と頭は少々痛んでおりますが、意欲はあります。