愉快な散歩或いは読書

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zoom RSS 懦弱論

<<   作成日時 : 2012/01/28 06:36   >>

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侍になりたる夢を繰り思ふ胸のあたりがえぐし朝から
                         茂吉




光圀のあと希望など無かつたやうに藩は弱体化する。酒を飲んで綻びる。斯様な話も老人の戯言である。或るミステリに、女性捜査官が少年の部屋を調べにやつて来る。室内は汚れて臭い。其れは skunk の悪臭である。彼は逃亡しながら幾つもの罠を仕掛ける。若い人は歴史に興味を持たず、僕もまた無関心である。印籠の中味は悪臭であれば話は弾むだらう。そして、アララギは既に無い。光圀とアララギの百年。背後の川を読む。最初の歌は築地の魚のにほひである。

端書は序文である。或る歳時記の其れを読むと、・・・意外な功罪をまねき、一歩あやまれば、啻に作句を過つばかりでなく、とある。句会の経験はないが、作句と批評の間には愉しみもあるだらうが、困難を想像する。歳時記も辞書の一冊であるから、日常の読書に其れを開くことは面白く有効でもある。しかし、英和辞典が読むことや作文にあまり役立たないのと同じく、作句に用ゐなければならないのはまづいことかもしれない。但し、編纂者は作句を語つてゐる訳ではなく、歳時記について書いてゐるのである。歳時記は季語と例句から成る。そして、季語を単語と見れば、近頃の政の其れに近く、凡そ退屈であることは間違いない。優れた句や句集が老人の顔であるのは表の顔であり、真実の裏は滑稽であり悲惨と云ふことにもなるだらうか。

秋水と利彦の番組を見る。最近のテレビで見る映画は面白いものがない。萬朝報と涙香、そして二人の平民社。荒畑寒村。Christine Lévy の翻訳である秋水の帝国主義。Deaver のミステリを読むやうに目まぐるしく変化する。斯様な比喩は不謹慎だらう。適切ではないけれど、娯楽小説を愉しむのも悪くない。帝国主義、正確には二十世紀の怪物 帝国主義を始めて読む。此れはたいへんに面白く、様様に考へることが出てくる本である。いま、秋水に限つて書くけれど、番組は如何に中途半端だつたかが判るくらいだから、興味は尽きなかつた。序文は内村鑑三である。少し調べると、平民社、萬朝報以前の秋水も重要で、非戦論も社会主義も見えてくるものが別にある。メディアの報道の自由度は此の國も亜米利加もランクが低い。なぜに鑑三が其の序文を書いたのかも重要かもしれない。・・・僕が面白いとし、重要であるとするのは、老人の眼でみる現在がと云ふ但し書きがつく。そして、震災以後のメディアは愚にしか見えないのである。

震災まで、関西へ移る前の大正時代に谷崎が描いてゐた中心の世界は何だらうか。例へば、お國と五平を読んでみる。彼は幾つものかうした劇を書いてゐた。関西へ移つて以後、何故書かなくなつたのか。谷崎のなかにあつた通俗な部分は終生あつたやうな気がするのに、彼は何故か其れを隠してしまつたやうな気がする。荷風の場合などは其の俗悪な部分はよく知られてゐるのに・・・、と僕は思ふ。谷崎を読みながら、僕が荷風を好む理由が此処にあるやうな気がする。荷風は秋水と略同時代を生きてゐたのだし、コノ國の軍国に批判的でもあつた。そして、荷風と遊郭、秋水と吉原。
内村鑑三 1861-1930
幸徳秋水 1871-1911
永井荷風 1879-1959
谷崎潤一郎 1886-1965

大通りの銀杏並木の剪定が続いてゐる。見上げると thrilling である。空は青く雲は流れる。栗本鋤雲をモデルにした雲をたがやす男を読む。数千bの上空の速度は如何ほどだらうか。午後、用事があつて隣の駅まで電車に乗る。ホームで待つてゐると反対側の電車が先にきて、窓から小さな女の子が顔を覗かせてゐる。発車と同時に僕の方へ手を振る。其れは控えめな挨拶のやうなものであつた気がする。僕は、手を振ることもできなくて電車を見送つた。猫を引用しながら、漱石の見事な逆上と書いたのは Binard である。僕はなぜか恥かしさで血が頭にのぼる。電力会社のだれかが値上げを語つてゐた其れも一種の逆上ではないか。さう僕には見える。見事なとは云へないけれど、男は、老人とても逆上する。銀杏の木の上で男たちが逆上することは危険であるが、見上げた空と雲に逆上しないだらうかと思ふ。歩いてゐる女たちも若い人も上を見ない。鋤雲の引退もまた逆上であらう。

或る日、馴染の古本屋で支払ひを済ませると、女店員が云ふ。明日より週末までは臨時休業です、と。さうですか。美人ぢやないけれど、いつも明るく愛想もいい。今日も空は青く、しかし、風は強い。道元の弟子は懐奘である。彼が師の話を纏めたものが正法眼蔵随聞記である。正法眼蔵が道元の表の顔ならば、随聞記は裏の顔である。二著は晝と夜の話でもあるかもしれない。ドチラも上手く理解できない。其の理由の一つは仏法にあるだらう。僕がゐる側は世法である。なあんだ、さうだつたかと云ふのは簡単であるが、岩波文庫の随聞記を読みながら、秉払や時光を辞書で引き一枚の紙に単語数十を連ねる。此れも遊びでしかないことは判つてゐる。凡愚なり。Deaver の小説の主人公は寝たきりで介護士は幾人も替つた。コチラは世法である。話は独断である。難解から離れて、僕は御伽草子を開く。御伽とは相手である。例へば、浦島は鶴になり、蓬莱の山にあひをなす。鶴と亀の結末は此れも仏法であらう。

人間一生、長うおもうて短し、と西鶴は書いてゐる。普通のことを普通に書いてゐて新しきことはなにもないのであるが、其れが総て面白いことが西鶴である。永代蔵は其の典型である。世法の町人が善も悪も金が総てとばかりに短篇の連作。息の根とめよ大矢数以後、彼は自立したと云つてもよく、仏法さへも笑ひとばすかのやうである。倹約、節約の金持ちになつた老人が拾つた金を島原へ届けるまでは良かつたのだが・・・、最後は謡うたひの乞食になり下がる。嗚呼、人生は短い。しかし、此れが人生。

散歩のとき持つてゐた新聞には Monna Lisa の copy のことが記事になつてゐるのを読み、obituary を見て、ベンチにて puzzle を解く。空青く、独りで愉しんでゐると隣に小さな男の子を連れた婦人がやつて来る。彼は大人しく僕の横に腰かける。母親は胸に赤児を抱いてゐる。甚く大事にしてゐるやうに見える。僕は puzzle に熱心だつたけれど、何だか変である。男の子は無口である。見知らぬ人の横では僕もさうだつたことを思ひ出した。しかし、よく見ると彼女が抱いてゐるのは犬である。其れは terrier の一種らしいが名前は忘れてしまつた。正式の長い名前を告げたのだけれど、果たして其れは赤児の copy であらうか。 Monna Lisa の方は、昔、瀬木慎一が書いてゐた。Louvre の其れを僕は見たことはないけれど、其れも copy であれば愉快である。絵画の真偽は愉快で愉しくもあるが、人間の copy は不愉快である。世之介の父親は夢介だつたか夢之介だつたか。父親は大尽だつた。世之介の放蕩は愉快である。父は勘当するが、僕は世之介の最後に感動する。西鶴が一代男を書いたのは若かつたけれど、僕もいまや世之介の年代である。そして、西鶴の小説にも copy の話は無数にある。・・・

溶けない氷がある。僕は惠方巻を食べないけれど、いつしか其れを夕食とする。子どもは二階から豆播きを始める。深夜、テレビを見てゐると降りてきて残つた豆を置いて行つた。僕は口に入れ、福なのか禍なのかを考へる。画面のなかのグラスの酒に氷がある。氷なのに溶けない。溶けない雪もある。其の上に雪が積つて雪崩が生じる。雪の重量は大したものらしいが、溶けない雪は雪なのかと思ふ。Warhol の画集を出してみる。此処には二人の Mona Lisa がゐる。或いは、三十五人の Jackie の顔。ドレモ真実のやうである。・・・袋には国産豆を使用と書いてある。同じやうな豆を年の数だけ並べてみるが、同じやうであるが同じではない。複製と数。

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