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zoom RSS 鴨長明 「新・書簡集」

<<   作成日時 : 2012/07/16 23:19   >>

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それは東京に大地震があつて間もない頃
                  甲賀三郎





驢馬氏へ

皆様、元気活発也。壮健の源は何でせうか。・・・本日、いつもの珈琲屋にて、一服の時、顔見知りの中年店員さん、珈琲の原価安し、いつも有難き、と。彼店主に非ず、良き接客。久しぶりに爺は嬉しくなりました。

ドーナツ餅なるもの知らず、食感を空想します。・・・

爺は今日の散歩も終り、昼寝の友に、俳句論を。著者知らず、無知は元より。・・・あはは。
暫し、愚愚。


至る處に自分の書き込みがある。と云つてもメモであつて、詩人の詩集からのものである。詩をもつて書簡集を読むに非ず、此れも旅の本、思想の旅とする方が相応しい。此の小さな本にないのは地図である。読者は簡便を求めてはならない。紙と鉛筆のみが理解と愉しみを助ける筈である。



此れも思想史であらう。大拙、浄土系思想論と同じく愉しく読む。かうした本は若い人は読まないかもしれない。埃に隠れて嫌はれるがオチであらうか。しかし、手垢に塗れてはゐない。狐塚は一つの紹介に過ぎないが、桶川の周辺をいくら歩いても想像力を欠いてはヤハリ、旅にはならない。



著者の最後の小説から、かうした短篇を択んで読むのは面白い発見へ繫がるだらうか。おそらく、此れも小さな旅である。お汁粉の一日で、戦争は截然と歴史にかはつた。野上が書いた一行から、再び、森へ。


中村は批評家であるが、小説家であり、劇作家だつた。呟いたこともあるが、消えてしまつたかもしれない。しばらくは此処に書名を残す。多分、鋤雲の名を知らぬ若い人は多いだらうからで、感想はと云へば、二人の男の、潔さとしませうか。


以前、仏蘭西の大きな國語辞典について呟いたかもしれない。此れも仏蘭西語で書かれた本である。僕は翻訳で読みました。聊か古いかもしれない。訳者は加藤周一で、十年後の彼のあとがきを見ても・・・。なにが古くなつてしまつたのか。なにがまだ残されてゐるのか。斯様なことを考へながら愉しみました。中山ラビの歌は正しいでせう。


時時、鮎川の詩集を読む。全集は揃へることはなかつた。友人には薦めました。既に読んでゐた本も多かつたからであるが、当時、中桐と共に信頼できる詩人だつた。二人の詩人は優れた批評家でもあつた。そして、中途半端だつた。此れは祝福です。いま読み直すと或る時代が現代へと繫がる。時評のすべてが読むに耐へるのは、詩人の強みでもある。


非常に面白いとは云はないけれど、僕は、若い人の小説を読んで久しぶりに愉しかつた。なにが面白かつたのかは上手く書くことができないが、此れも小説であらう、と思ふ。昔、三島が日本の古典のことばが体に入つてゐる人間は最後だ、と云ふやうなことを話してゐたけれど、小説の感じ方も違ふのだらう、と思つた。彼女らの世代が、戦後派や近代や古典を如何に読み、感じてゐるのかの差は大きいのかもしれない。そして、同世代の読者は、例へば、ゼロの王国を如何に読んでゐるのかにも興味がある。悪くはない。村上春樹を飽きたと考へるやうな世代に期待・・・する。


老人になつても読み返す童話である。独歩の短篇の一つに関連するかもしれない。其れを具体的に書くと、少しセンチメンタルな気分になるので止めませう。先生が黒板に、大きな圓を書いて生徒らに質問する。彼らは色色に答へる。正解は書きませんよ。・・・みんなの考は、みんな眞實です。昔、多くの作家、詩人が左傾化しました。檸檬を書いた作家も。でも、記憶して欲しいのは雨雀の方でせう。


バーネットの The Secret Garden がある。翻訳もありますが、今回は英語で読みました。ペンギンの児童文庫版でも良かつたけれど、ネットで読みましたね。後に、古本屋で児童文庫版を買つた。一行目から赤字の書き入れがある。the most disagreeable-looking child ever seen と云ふ處に、きむずかしいとある。最初に此れを読んだ人はいまも苦労してゐるかもしれない。梅園はもつと苦労した筈である。言語は実用ではなく思想でせう。解説はしません。


何年か前に松本竣介の絵を見たくて水戸まで出かけた事がある。彼の絵もモデルとなつた場所は調査されてゐるだらう。佐伯は巴里を描いたが、巴里はいまも變はらないだらうか。まあ、僕は巴里を知らないのですが、此の本は古いから如何であらうか。もつと調査研究が進んだかもしれない。・・・しかし、誰の絵でも人物も風景も、かうした事にはあまり興味がない。一つ気になるのは、画家が如何にして描いたかで、例へば、画家は立つてゐたのか。腰かけてゐたのか。


手元に簡単なアメリカ文学史の本がある。其の本に最初に出てくる女性の文学者は、Anne Bradstreet である。詩人である。以来、多くの女性の詩人や小説家が生まれた。と、云つても僕は殆ど読んだ事はないのだが。・・・此の本は短篇のアンソロジーで、アトウッドからマンローまでの十人が登場する。つまり、現代の作家ばかりであるのだが、鳥渡古い本であるから最新ではない、今日良く読まれてゐるのはアトウッドくらいだらうか。そして、なぜなのかと考へる。文学の幸福な時代は終つたのか。終つた。みな女性たちで女性の為の短篇。


岩波の旧鏡花全集は処分してしまつた。新版は好みではない。時時読むのはちくま文庫版である。しかし、此れは嬉しくはない。編者は種村李弘である。理由は書かない。なぜかうした小説が新かなづかいなのであらうか。一葉とて同じであるが。鏡花の物語は路地の細路から始まるのが普通である。小説の終りに、路地の細路駒下駄で、とある。種村は解説のなかで、一葉を出してきた。さうかもしれないし、モダンかもしれないのだが、此れは鏡花の好みだつた、と見るべきではないか。ならば、底本とした旧鏡花全集を真似るべきだつた。アレは駄目だが。


先に書いた加藤の評伝のなかにもバックが出てくる。戦時下の於いて、加藤の自伝を褒めてゐたのがパール・バックだつた。其れは朝日新聞の切り貼りした捏造だつた。彼女はアメリカで出版された加藤の本に批判的だつたのだ。propagannda とはなにか。かうした流れは当時普通だつたのだらう。しかし、いつも疑問の感じる事は、多くの人が戦争は負けるだらうと思つてゐたとしても、多くの人はなにも知らなかつたのではないか。僕にはヴェトナム戦争でさへ確信を持つて語る事が出来ないのだ。バックもまたさうした時代に生きたのである。


此の本には、娘であり、訳者である加藤タキの署名がある。こころをこめて、と。青鞜の多くの女性は裕福だつた。其れは当時の知識人である事の常識でもあつた。シヅエも同様である。僕は、宮本百合子関連で此れを読み始めたのだつた。幾つか面白い事もあつたけれど、僕の知りたい事は詳しくはなかつた。・・・しかし、いままでに書いた感想とも関連するので取り上げるのである。名前だけを知つてゐたのだが、此処に個性的な人生があつた事は確かである。


かうした本が愉快で一番いい。著者は東京の文学散歩はやらないと書いてゐる。僕も賛成である。既に東京に価値はないだらう。面白い處はないだらう。僕もさう思ふのだが、僕は少しだけ此の本から知識を若い人へ話したくなる。余計なお世話である。しかし、江戸つ子はみなさうした者ぢやなかつたらうか。確かに歌舞伎が古典藝能である事はお笑ひである。メディアが芝居を駄目にしたのは本当だらう。散歩からの帰り道に大衆劇場に数人の客が並んでゐるのを見た。子供の頃に祖母と来た小屋である。歌舞伎よりも煎餅が僕は好きである。アンタは?


此の時期であるから択んだ訳ではないが、東京散歩の一つとして再読した。池田弥三郎の解説に拠れば、書かれたのは昭和三十年の十一月で、雑誌発表が一月である。其れは一月号と云ふ意味であらうか。広辞苑で、酉の市を引くと、酉のまちとある。此の短篇の終りの方に、どこへ?酉のまちへさ、とある。面白い小説で、会話体で成立してゐる。話題が三の酉から酉のまちで終る話のなかに東京が浮かびあがる。池田は、東京人の会話ぶりと云ふ。既に僕なぞも理解できない處もあるが、此れは一つの参考である。ズケリ、ケロリ、が愉快で巧い。


他人の日記や手紙を読む。下世話ではある。其れを好奇心と云ふのは間違つてゐる。例へば、ウォルター・スコットの私的な書簡が発見されたとする。死後二百年が経過すれば、まして英國の文人に後ろめたさは感じないだらう。森有正の日記も書簡も正確には非公開である。田辺と野上の関係は、ハイデガーとアーレントの関係は、と下世話な下心は僕にだつて生じる。しかし、である。現代の作家や哲学者が其れを意識しなかつただらうか。昔もいまも手紙は読まれるために書かれた事はあるし、日記は猶更であらう。下司は荷風先生に限らない。だから愉快か。


エイスケは栄助であるが、エイスケがいい。年譜をみると、十六歳でアナーキズムの影響を受けた、とある。僕の十六歳もさうした感覚があつた。そして、ダダイズム。十六、七歳で如何なる理解を得たのかは環境に拠るだらう。高橋新吉や辻潤、無想庵に三四郎、知義そして、春夫。・・・いま読むとエイスケの小説も詩も面白くないのである。モダンは色褪せてゐる。なぜでせうかね。小説には変てこな男女が出てくるけれど、女の情夫は、彼の詩から引用すれば、ダダイストだつた。辻の周囲は騒がしいと云ふのが感想である。音量を上げて読みませう。


光文社文庫は目立たない處で優れた本を多く出してゐる。其の筆頭は、岡本綺堂であり都筑道夫である。そして、神聖喜劇である。ミステリと時代ものは昔からあつた。三田村 鳶魚は、右門を時代考証で罵倒してゐるが、目角を立てても仕方がない。時代ものと落語も江戸に欠く事は出来ない。例へば、神田を歩いて江戸を喚起させるものはないのだが、此れ一冊を思ひ出せば愉快にもならうか。散歩も悪くないでせう。


青鞜は何処から生まれたのだらうか。河上は、大正四年に、二大問題として貧富の問題と男女の問題について書いた。二つは直接に関連しないのであるが、彼の學者らしい視点は古びてはゐない。なぜ女性は家を出なければならないのか。経済學から見ると如何なる問題があるのだらうか。文学が好きな若い人が河上の全集を読む事はないだらう。しかし、此の岩波文庫一冊を必携として棚へ並べて置く事を薦める。彼はまた鍵附の戸から Ceinture de chasteté へと及ぶ。河上が藤村と同じ巴里のホテルにゐた事が愉快である。


戦時下での自由の隙間と云ふ事を鶴見俊輔が書いてゐる。其れは渡辺一夫の翻訳についてであつたが、此の本を読みながら、チボー家の人々の作者のノーベル賞が昭和十年代であり、中学の図書館にも古本屋にも並んでゐた事を思ひ出したのだつた。いま思ふと当時の中高生の読書家はみな読んでゐた気もする。勿論、僕は読まなかつた。果して理解できたのだらうか。杉の此の本は、昭和十四年に出た。彼の最初の本であるが、まだかうした本が出てもゐたのだつた。・・・戦時下とは如何なる時代なのか。勿論、杉や渡辺の師は辰野隆である。


パスカルが早熟の天才だつたかは知らない。彼の年譜を見れば、数学的な頭脳を持つた優れた哲学者だつたかもしれない。しかし、数式は僕には理解できない。彼の神があるかないかの論も面白いけれど、此れも僕には理解できない。例へば、パンセのドノ部分を読むかで好みは別れるかもしれない。僕の経験では、パンセを最後まで読んでも全体はよく判らないのである。其れが未完だからであらうか。・・・一つだけ僕の好みを上げませうか。彼の賭博の論理だけは愉快である。引用はしませんよ。誰にも知られたくないからです。此の本の半分は彼の引用です。


小学生の頃、漢字の書き取りは得意でした。英語は駄目でしたね。girl なのか gril なのか。斯様な莫迦な中学生はゐないかもしれません。室町と鎌倉はドチラが古いのか。・・・かうしたものが勉強なのか。面白くない事は確かでせう。では、なぜ面白くないのだらうか。此の本のなかで、耳と云ふ漢字の話が出てくる。そして、門がまへをつけて聞と云ふ漢字になる。だが、なかにある耳が違ひますね。新聞と云ふ漢字はテストにあつたけれど、間違へた記憶はない。でも、さう書いた事は一度もなかつた。曖昧さこそ勉強が愉快になる根本でせう。


詩人安東の見方は、例へば、一句が面白くもつまらなくも見える晩年の句こそ面目である、と云ふ事に尽きるだらうか。五月雨や滄海を衝濁水。・・・彼の註釈を引用するのは面倒である。露伴と共に、文人の評釈であるとだけ云ふ事にします。まあ、相手が芭蕉であり蕪村であるからでせうか。斯様に読み手を択ぶ文学も少ない。僕らはかうした現代の詩人を持つてゐた。


真珠湾攻撃は十二月八日である。昭和十六年。其の前年に書いたのが、回想の著者が監督した映画の感想である。大岡昇平は解説のなかで、小林は常に外部に内部を見た、と書いてゐる。そして、外部に表れない不確かな内部を信用しなかつた、と。伊藤成彦は、茂吉や信夫や光太郎を例に出して太平洋戦争の始まつた十二月と敗戦の年の同じ文学者を引用してゐる。彼らの思考は殆ど變はらなかつた。そして、大田洋子や原民喜の變化を描く。小林の變化は如何なるものだつたのか。戦争の時代の着眼点を見つける事は容易であらう。しかし、小林の思考は難解だ。


雑誌に長篇小説が連載される事がある。数年かけて、始まりの頃を忘れ最後をうつかりする。ならば単行本を待つ方が合理的である。過去にも中野重治の小説があり、福永の死の島や野間の青年の環があつた。死霊があり、小島信夫の小説があつた。李の小説もかうした本の一冊になるだらう。しかし、現在の僕は文藝雑誌を読まないので、古本でも読まなくなつた、時時意味もなく好きな作家の長篇小説の一部を読む事はなくなつた。・・・そして、少し驚く。此れは面白い小説であるが、僕が知つてゐた李の小説とは違ふやうな気がする。読了は早かつた。


愉快な本である。丁度、世間ではエヴァが大勢の客を集めてゐるが、本の表紙は春信の美人である。空から飛びだして来る赤い二号機のアスカを連想させる。おそらく文庫版も同じ表紙であらう。つまり、此処から十八世紀の江戸の想像力が展開する。話は多方面に拡大し、僕らの無知を自覚させもするだらう。此れは理論の書ではない。優雅な極楽の絵巻ではないか。・・・学術書ではない、と著者は云ふ。松田修の東海道中膝栗毛論に等しい。一つ若い人へ忠告しませう。此れを愉しむためには一一の経験が必要である事を。アナタは読みませんね!


雪國や伊豆の踊子には明確なモデルがありました。川端自身も書いてゐる。凡庸な人間は空想する事をやめた方が良いと。其れは危険だ、と。ゲーテだつたかしら。ウィンターソンはいつも愛の物語から出発する。神話を逆転させて彼女の自伝へ、と。自伝を過去の記録としてではなく、未来へ展開させたのだつた。・・・多分、若い小説家のなかで僕が読む数少ない一人である。と云つても僕より少し若いだけであるが。愉快であるが、困難な道を選択するのが作家だらうか。危険ではあるが、未来は魅力的だと云ふのは作家の信条だらうか。さう、真情がいい。


フォークナーが来日したのは、1955年である。其の時、アメリカの北はヨーロッパであり、アメリカの南こそが本当の・・・と語つた事を川端康成が書いてゐる。其れに関連すれば、ジェイムズはヨーロッパのアメリカだらうか。しかし、鳥渡怪しいだらうか。斯様な詰らぬ事を思ひながら、新潮文庫を開いたのだつた。忘れてゐる事が多いのはいつもの事であるが、解説に至つて漸く・・・、否、最初に戻つてサリンジャーはアメリカの北の作家だつた、と。大陸は何処も大きく複雑である。島國はいつも何処かの大陸に夢を抱いてゐた。雪國は・・・。


確かアダム・スミスの蔵書は数千冊だつた。学校を出て、初任給は十三万位だつた。僕は、其の大半を本代としたけれど、契沖の研究書を買つたのは其の頃だつた。學者としてのスミスの蔵書を今日多いと思ふ人は少ないだらう。僕の書庫にだつて其の十倍はあるだらうから。しかし、本当の研究は充分ではなかつたか。代匠記は万葉集の註釈書である。彼の研究も多くの文献を必要とした。國富論の著者も同様である。いま手元にあるのは冨山房の戦前の文庫である。足常はつとちと通じて常の字は借れり。母は我が母にあらず。妹が母なり。學徒らは何を読むか。


画家や音楽家の伝記を読むのは嫌ひではない。伝記とは記録である。さう辞書にはある。此の本は画家の伝記である。では、評伝とはなにか。其処に批評が入るのだが、両者に境界はあるのだらうか。僕は、此処で少し悩みましたね。なにか参考書はないか、と。仕方なくではないが、大岡昇平の全集から、ティボーデのスタンダール伝の後記を読む事に。そして、訳者である窪田の後書も再読して見ました。彼は、小説化された伝記ではない、と書いてゐる。では、小説化された伝記とはなにか。余白がありませんな。やはり、大岡は優れた作家でした。・・・


啄木の晩年、詩人は本郷に生活してゐた。貧窮の生活だつた。弓町の床屋の二階である。其れは澤地久枝の石川節子に詳しい。都市は生活の場である。其の都市がピラミッドのやうな観光の場所になつたのはいつ頃からだらうか。現代の僕たちも啄木の生活を地図を片手に歩いて見る事はできない。澤地は殆ど文学を描く事はしない。・・・此れは建築家の都市の考察であるが、生活から都市と啄木を読む必要はあるのかもしれない。彼もまた、床屋の二階に少しだけ触れてゐるのだが。若い人は散髪へは行きませんか。


高校生の頃、bamboo と云ふ単語を覚えた。以来、実用で使用する事はなかつた。友人は竹だ、と。武田でも竹田でも彼の名前はなかつたが。そして、彼の愛犬の名前が、バンブーだつた。フラテも犬の名前である。・・・同じ頃、僕は佐藤春夫の短篇を読んでゐた。彼の長篇小説は何一つ知らなかつた。田園の憂鬱よりも都会の憂鬱よりも西班牙犬の家がよかつた。初期の春夫の小説は、彼は詩人として出発したけれど、幻惑の森のイメージがあつた。其れは僕の十代の頃の気持ちだつた。其れとも逃走かもしれない。時代は春夫を思ひ出させはしないが。


昭和のお父さんのための本である。平成のお父さんには鳥渡早いだらう。お父さんの為とはなにか。若い人も老人も、お父さんである。此れは珍しく実用の本でもある。帯に小沢昭一が戦友が書いた本だ、と。本文のお父さんはフェミニストである。此れで昭和を知る事も可能である。・・・本の最後で、著者はドラッカーを引用する。人間は時間の浪費者。気づいたら寝る時間でした。


退屈な午後に、アランを読みたくなつた。Propos は面倒だから、集英社文庫版を択んだ。理由は特にない。翻訳は沢山あるが、好みの事は書かない。只、新しいものは読まないとだけ記せば充分である。・・・彼はプラトンを例に出して、死を語る。死は一秒先の未来である。しかし、其れを知る者はゐない。死後の事は誰も知らない。彼もなにも云はない。だから、プラトンを例に引くのだらう。其れは御伽噺であるが、僕も充分にプラトンを信用する。なぜなら、アランを信用するからであるが、二人は過去へと去つてしまつた。読む理由は書きました。


僕の読んだのは新潮文庫版であるが、其れは昭和三十一年に出て、単行本は河出書房から昭和二十七年に出たのだつた。最初にかうした事を書いたのは、谷崎はまだ生きてゐて、作家の死は其の十年後であると云ふ事なのだ。・・・そして、此の本は大谷崎へのオマージュであり、批判でもある。其れを中途半端とするかは兎も角、昭和の優れた批評の多くはかうしたものだつたのではないか。例へば、別の優れた批評家に平野謙がゐる。・・・此の本は傑作でもあるのだが、今では古いかもしれない。鍵はまだ出てゐなかつた。しかし、八十頁に及ぶ年譜は面白い。


いつも此方側からではあるが、戦中戦後を考へるヒントを二人の小説家から得てきたのだつた。百合子と稲子である。そして、彼らの前にはもつと大きな群像があつたのだとも思ふけれど、其の事は別にしませう。戦後とはなにか、と云ふ大風呂敷は何でも包み込むだらうから。・・・別の二人の作家の名前を挙げる。平林たい子と壺井栄である。僕は、此の四人の作家を若い人に薦める。多分、何も読んではゐないだらう。二十四の瞳は読んだ? 其れはいい事ですね。壺井栄の好んだ言葉は、桃栗三年柿八年柚の大馬鹿十八年だつた。碑にもある。過去は直ぐ後。


何処かの首相が子供の頃の成績表の話をして、正直に莫迦がつくと書かれてあつた、と。其れを僕はテレビで見てゐて、理解できなかつた。成績の良し悪しにも興味はない。其れよりも、乱暴な生徒。始終気持が散漫で喧嘩ばかりする。改善の要あり。此れはニコラの成績表。友人の成績表も、散漫な生徒。みな改善の要あり、である。彼が帰宅すると夫婦喧嘩の最中である。父親は成績表に何も云はずにサインする。ニコラは自室のベッドのなかで泣き始める。・・・斯様な家庭で、此の國の首相の発言は理解できないだらうし、信用もされないだらう。先生!


小林の銀色の表紙の戯曲集は数冊あるけれど、僕が読んだのは、椿 鯨 雀 である。昨日、終日芭蕉句集を読んでゐた。俳諧とは、辞書をひくと、滑稽、戯けとある。勿論、俳諧は連句を意味する。鶯や餅に糞する高フ先、と翁が始める。芭蕉を難解とする必要はない。言葉遊びが真面目へ向かつて衰退したのは貞門だらうが、翁も未来と過去の糸電話を継いでもゐるのである。小林と芭蕉を並行して読むのは愉快である。・・・銀色の本の理由は僕は知らないが、彼の戯曲集を読みながら、現代史や現代詩を考へた。一秒先は未来である。鳥肌がたちますね。


将棋では成金であるが、チェスの場合にはポーンが最高でクィーンに成る事ができる。実戦では多くないが、やさしいゲームではよくある事である。パソコンでは画像が普通に変化するけれど、実戦ではクィーンがまだ取られてゐなければ、二つのクィーンとなる。しかし、クィーンは元元一つしかないのだから困る事になる。其の点は将棋と比べて異なる事である。駒は白黒其其一つである。さて、アナタならば如何しますか。幾つかの答が此の本にはあります。愉快ですよ。数十年ぶりに読んだので忘れてゐた答でしたが、僕はまだ実行した事がない。女王陛下。


妙な本を択んだかもしれない。書誌学とはなにか。よく判らないのだが、判らないとは其の意味が多様であるからである。しかし、ミステリのやうに犯人を追ふつもりは僕にはないのです。多様さの総てが犯人である事もあつて、・・・と考へる事も可能ではあるけれど、序説とあるのだから、入り口まででいいのかもしれないのである。芭蕉の句を引用しませう。木枯や竹に隠れてしづまりぬ。一枚の画もまた本である。一枚の地図もまた折り畳む事で本にもなる。当然に、一枚は本であらう。例へば、芭蕉句集の一頁だけでは本にはならない。其れはなぜか。


友人が、若き日に独逸へ勉強に出かけた事がある。僕は、横浜の港から見送つた。そして、ストックホルムの古書店へ寄つてくれるやうに頼んだ。彼はボイエの全集から数冊を択んでくれた。帰國後の土産話は蛞蝓だつた。此の國では考へられぬ大きな蛞蝓の話である。茉莉は蛞蝓が嫌ひだつた。僕の子供の頃は何処にでも現れたものである。最近は見ないのはなぜだらうか。台所には塩の壺があつた。茉莉は鴎外が判らぬと書いた。富岡、白石、滝口、吉行らの女流詩人の名前を挙げて其の言葉は旧かなを感じさせる、と。茉莉のエッセイからは思ひ出が多い。


此れを老年の文学とするには少しズレが生じる。しかし、若い人の小説でもないだらう。とすれば、残るのは中年のための文学になる。多分、其れも正解ではないでせう。・・・斯様な事は詰らぬ事である。さうかもしれないが、金井の目白小説はなぜか、かうした心理が働くのである。そして、作家はあはよくば、と考へてゐただらう。確かな計算もあつただらうか。・・・目白小説の系譜は、メジロのやうに横へと繫がる。けれども拡散、拡大はない。通底するものもない。老年には未熟な中年のメジロであるか。彼女は群れを嫌ふだらうが。ラノベの読者へ。


彼は詩人であるが、小説も書いた。若かつた僕は、多分、詩人として小説を買つたのだつた。翻訳が出たのは六十年代の半ばである。当時の記憶は多くない。小説は、白水社の新しい世界の文学の一冊として出版された。まだ世界の文学が新鮮な響きを持つてゐた。個人的にではあるが。・・・南部の小説には興味が開かれてない頃である。好みは天性であり巧拙は技術。そして、技術は遠しである。僕は、斯様な言葉を拾つて読んでゐた。・・・野心、戀、恐怖、金。人間が限度を越境するテーマである。いまの僕は別の読み方をするが、さて、小説とは何か。


確かジーキル博士とハイド氏に、新潮文庫だつたと思ふけれど、瑞典ストーブが出てきた。此れが如何なるものなのかはずつと気になつてゐた。辻潤の巴里滞在記には燐寸が高いとあつた。瑞典の燐寸と云ふ小説もあつた筈である。瑞典の燐寸が如何なるものなのかも気になつてゐた。そして、ノートンの小人たちを読んでゐて、蠟燭や燐寸が出てきた。此れにはスタンレーの挿絵が豊富に入つてゐる。原作が出てのは五十年代である。ノートンの小説は愉快であるが、僕は其の面白さよりも以上の事が思ひ出されて落ち着かなくなつた。・・・読書は不思議な友だ。


サルトルが来日した時の記憶は微かに残つてゐる。サロートが来日した時は記憶にある。当時は、此の本が出ても、ビュトールの小説は読んでゐなかつたのではないか。時間割も心変わりも知つてゐたのだが、多分、さうだらう。サルトルは流行かもしれないが、其の次の哲学も文学も・・・映画も、一つの時代のなかで重なるやうな気がする。サルトルから大江や倉橋が出た事は確かだらうが、次の時代の文学になにがあつたのか。・・・書かれた語にそれ本来の音響性を返してやることを文学の基本だと彼は云ふ。さて、彼らの小説はいま退屈だらうか。


現代はもつと未来へ近づいたのだらうか。ビューティフル・マインドが思つたより面白くなかつたので、昔の本を棚から出してきた。だからと云つて、原因の多くは僕自身にあるから、現代と云ふものをよく理解出来てゐないと云ふ事でもある。凡そ三十年近く前の此の本を読んだ時もさうだつた。但し、いまでも棚に残つてゐると云ふ事は何がしかの直観が働いたのかもしれない。直観は僕の場合はベルグソンから始まるけれど、哲学も物理学も数学も・・・と現代は進歩した。其れは後の事であるが、柳瀬は神を見てゐたやうな気もする。現代とはなにか。


いつもの珈琲屋で読んでゐたのは日本霊異記だつた。此の本は仏教説話集であるが、有名な例としての乳房の話がある。帰宅して、棚を探してみた。乳房論を。そして、辿り着いたのが闇のユートピアだつた。此の本には松田の署名がある。が、其の事は別の事項を含むので省略しませう。著者は西東三鬼を論じる。高倉健の昭和残俠伝から馬琴論に関る。・・・おそるべき君等の乳房夏来る。此処に僕は久しぶりに三鬼を読んだ。そして、最後は塚本邦雄論。かうした経緯を持つ乳房論を面白いと思ふのだが、ドレモに関る事は恐れであらうか。傑作評論集である。


ミステリはなぜか英國作家のものを好む。特に、セイヤーズからジェイムズまでの女流作家の系譜がいい。例外は、カーもいいのだが、デクスターが宜しい。そして、此の作品が一番である。モース警部を愛する。・・・モース警部は既に亡くなつたので、僕の机の下には警部が愛飲した酒が置いてある。ミステリに、特に優れたミステリには感想は無用だらう。犯人がだれなのかもトリックも意味がない。必要なのはオマージュではないか。つまり、ミステリを論じる言葉は一つしかなく、面白いとだけ書く他にはなにもないのである。・・・乾杯!


紅茶の実用書である。此れを読んだからと云つて、紅茶を飲む事はない。紅茶も珈琲も面倒な事は變はらない。僕は、インスタントの珈琲かコンビニの無糖を買つて飲む。あまりにも怠惰であると思ふ。・・・ティーバッグは紅茶か、と此の本にはあつた。勿論、ティーバッグは紅茶である。しかし、普通の茶葉とは使用が異なる。其れを説明する事は面倒である。問は、漫画は小説や詩と同じ本であるのかと云ふのに似てゐる。・・・紅茶の蘊蓄を誰かと語るには面白い本である。一つ残念なのは、索引がない事である。索引を作るのも愉しい遊びであるが、面倒。

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