愉快な散歩或いは読書

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zoom RSS 夢のなかの暖炉の火はいつも暖かいのか

<<   作成日時 : 2012/12/03 18:35   >>

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これだけはと残してあつた「墨東綺譚」の署名入の初版本を売りにS町に行くことにした。
                                                         萩原葉子





某月某日

古本屋の棚に二冊が並んでゐた。Michelangelo と Rembrandt である。版元も著者も異なるのだが、結局前者を購入する。Michelangelo に興味はないのだが、なぜか読んでくれと云ふ顔をしてゐる。なにか面白い部分があるかもしれない。なぜ Michelangelo 興味がないのかと云へば、多分、見る機会が少ないからだらうか。後者の方が画家としては興味深いけれど、本としては退屈さうなのだ。ドチラも英語の本だから迂闊な事は云へないが。

テレビを見てゐると、bot が話題である。説明を受けた事はあつたが、僕はそれをブートだとばかり思つてゐた。しかし、ボットなのである。ロボットだと。チャペックではないか。若い人はよく知つてゐる。


某月某日

史伝閑歩を読む。


某月某日

無援の抒情を読む。いつまでも此の歌集からは抜けられぬ自分がゐる。


某月某日

遠くの友人とメールで話してゐて、現在では海外へも無料の通信で話す時代であらうが、此れもまた古くさいけれど、同人雑誌をと希望した。友人は賛成の意思表示をしないのである。面倒は互いに気づいてゐるからなのか。・・・杭の響きと名づける。


某月某日

マッカラーズと写真家のアーバスが重なる事をエレン・モアズが書いてゐる。同じやうな事を考へる人はゐるものである。
シルヴィア・プラスがエレクトラ・コンプレックスである事をモアズは書いてゐるけれど、其れは当時の新説ではないだらうが、例へば、プラスは田舎の少なくともアメリカを代表するやうな美少女であつた事。其れが異形のものへの関心や死へ向かう事は面白いのである。此処には名前が出て来るだけであるが、アン・セクストンもさうした何かがあつたのだらう。


某月某日

岡本かの子が小説に専念したのは数年の間だつた。最後の数年であつた。或る一つの見方は戦時下の死だつた事で、彼女もまた単純に戦争へ勝利を確信してゐたからで、其の小説は戦前に閉じられてゐたと云ふ考へである。岡本かの子は戦争讃歌のやうな小説も書いたし、宮本百合子は其れを批判してもゐた。斯様な事を書いたのは、散歩の途中で死後出版された、丸の内草話を古本屋で見つけたからである。
当時の評価は高いものだつた。現在も人気はあるだらうが、其れがなぜなのかはよく判らない處があるのである。生々流転は一平が最後を書きたしたと云ふのは定説に近いかもしれない・・・


某月某日

松林尚志の斉藤茂吉論を読む。


某月某日

闇のユートピアから江戸の想像力へ。迂回しながら日本の旅人。膝栗毛へと。
書棚に新しい本も古い本も並べる事は不可能な状態である。さうかと云つても他人の棚を見るのも難しい。なぜ詰らぬ事を考へるのだらうか。・・・古本屋の棚にランダムに出鱈目に並ぶ本を見ながら、見知らぬ人が集めた偶然が愉しい。


某月某日

中野重治を読む。例へば、空想家とシナリオ。第三班長と木島一等兵。


某月某日

オースティンの総ての小説の始まりには金銭の事が出て来る。そして、シャーロット・ブロンテの数少ない小説の総ては主観的なモチーフよりなる。・・・二人の有名な女流小説家は、ブロンテはオースティンの小説を読んだけれど、殆ど重なる處がなかつた。仮に、ヨーロッパの何処かの古本屋にまだ埋もれてゐると考へたならば、今日の文学は如何なるものであつたらうか。



某月某日

或る人と普通の小説とラノベと云はれる小説の違ひは何かと云ふ事を話してゐたとき、浮かんだ言葉は文壇と云ふ定義の事で、其の意味は花田清輝が云ふ作家が原稿料を貰つて生きるのであれば、此処に文壇が生じると云ふ事に関係する。一つのギルドであらうか。若い人のラノベと云はれる落し穴や愚は其れを知らない事かもしれない。同じやうな意味の變化が混乱を招いてゐる一つに転向がある。転向の意味は本来単純なものだつた。


某月某日

日本三文オペラの著者は武田麟太郎である。同じ題名の小説の作者は開高健でもある。武田は大阪の人であるが、東京を舞台にして幾つもの小説を書いた。其れは彼の短い生涯の揺れ動きを象徴してゐないだらうか。
織田作之助も大阪の人である。彼も・・・東京へ、と。そして、両者は短い生涯でもあつた。


某月某日

或る雑誌を読んでゐると、SNSは戯言の羅列であるとあつた。さうかもしれない。なぜ人は飽きるのでせうか。


某月某日

岡井隆 短歌の世界を読む。
高村典子 わらふ樹を読む。

言葉が言えないことに気づくのが、失語症の始まりだった。また漢字もずいぶん忘れてしまった。「薔薇」「憂鬱」と書けるのに、「脅える」は読めなかった。・・・わらふ樹は、さうした著者の歌集である。


某月某日

幾つあるのかは知らないのだけれど、古本屋の話である。神保町の古本屋の多くは、本が必要でなければとても高い。高いと云ふのは無意味を意味してゐる。そして、其の無意味さは其れなりの水準を持つてゐるのだけれど、つまり、或る見識である。しかし、形のない暴走的な無意味さがアマゾンやブックオフにはあつて笑ひを誘ふのである。


某月某日

昼寝の夢。実家と廃屋になつてゐる本だけが散乱してゐる小さな家に鉄骨の屋根が出てきた。鉄骨の色彩がリアルだつた。起きてから幾度もアノ夢を反芻した。

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