愉快な散歩或いは読書

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<<   作成日時 : 2014/01/09 03:59   >>

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  荒々しく
  奪ふやうに
         ユリアン·トゥーヴィム




雪國の翻訳を例にして大澤吉博が指が手 hand であることを書いてゐる。此処は日本人にとつてエロティックな意味を持つ處でせうが大澤の解釈は或る時代に着眼する。其れはヴェトナム戦争以前と云ふことで性解放以前の事情と云ふことになる。

若い人からウォーキングの本を贈られたことがあつた。其のときは棚に積んで置くだけであつた。今年は其の本が顔をだした。そして雪國の復刻版も顔をだした。ほぼ同時である。ヴェトナム戦争中兵士らは如何に歩いたのだらうか。父は映画で見るやうな彼らの歩行を愚だと云つた。僕にはドチラも同じやうに思はれた。正解があるのかは知らない。

ウォーキングの本のキーワードは体幹である。姿勢が良くなる。走ることと歩くことは同じである。此の本にはさう書いてある。川端の小説を思ひ出したやうに開いてみるが登場人物の多くは動きを見せない。なぜだらうか。戦前戦後の女たちは着物を普通に着こなしてゐたからか。履物か。帯かしら。

川端の雪國へ話を戻すことにする。此の中篇小説を読み返してなぜ此の小説が翻訳されたのかがいつも疑問だつた。川端の文体は戦前も戦後も變化はない。其れは重心がぶれないことであるより視点の問題ではないか。だから人物はだれも動きを見せない。

Dora Pejačević ヴァイオリンソナタを聴く。

學生時代からの友人が定年になつた、と彼の細君から電話があつた。今はなにをしてゐるのと僕の細君が云ふ。家事仕事。掃除洗濯も?僕も炊事仕事は少少。彼女は季節労働者である。イベントや中元歳暮の季節。しかしイベントは若い人に追はれたと云ふ。ははは。此方ははあはあである。彼はぼんやりしてゐる。僕もぼんやりしてゐる。其のぼんやりした先になにがあるのだらうか。

Max Bruch のヴァイオリン協奏曲を聴く。

Andreas Tilliander を聴く。

Maria João Pires のピアノを深夜愉しむ。

早朝まで音楽を聴く。なぜだらうかと思ひながら老人は神経症だらうかと。 Amy Beach を 聴く。I can't get no satisfaction ・・・此れは正しい英語ではなく無教養な人の英語と参考書には書いてある。此の曲が流行した頃の若者は其れが新鮮だつた。老人も其の頃は若かつたけれど英語はできなかつた。妙な詞だとは思つたけれど。Amy Beach と此の曲は普通結びつかない。ドチラも思はれるのは共通したひとつの神経症である。例へばアラゴンの死刑執行を読み返してみる。其れは最後の章で充分の筈である。再び。

Jennifer Bate のオルガンを聴く。深夜。

孤独。其れは愉しい時間。其れは仕方のない時間。早朝。タンジェリン・ドリームのやうなキング・クリムゾンのやうな音楽が電子音楽を二時間聴いてゐる。Pink Floyd が歌ふ。We don't need no education. We don't need no thought control. 誰かが歌つてゐた。冬は其れでも悪くはないよ。老人は最早北欧の冬の出来事は忘れた。

時時夢に見るのは田園地帯を歩いてゐる老人の若き日。と云つても里山も本当の田園も知らない。身体のバランスは丹田にある。心の其れは夢であらうか。夢は何処にあるのか。

Peter Warlock の歌曲を聴く。

連日何とか細胞の話でテレビは賑やかなり。愚なり。チョキなり。パーなり。面白い事なにもなし。

昔からの持論ではあつたけれど誰も見向くものはゐない。クラシック音楽の番組ではキング・クリムゾンやフランク・ザッパがシンクロしてゐる。午後うとうとしながらメールが届く。引用の問題か記憶の問題か。太宰や有島の小説から。若い人がかうした問題を面白く思ふのは何故かしら。文学と音楽。老人の解答は半分。オペラ歌手の外國語がよく判らない。此れも半分。総ての人生の半分が残りの半分にシンクロする不思議。しかし其れは誤解である。眠い眠い。

眠くても眠れない。

煙草の自販機まで歩いてはあはあ。何故か走る。ふうふう。生きる事にも飽きた。

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